はじめに-曾我兄弟とはどんな人物だったのか
曾我(曽我)兄弟は、父の仇を討ったことで名高い鎌倉初期の武人の兄弟です。兄・曾我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり、演:田邊和也)と弟・五郎時致(ごろうときむね、演:田中俊介)は、父の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討ち、のちに日本三大仇討の一つとして謡曲・歌舞伎などの題材となりました。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、仇討ちのために生きる兄弟として描かれます。
目次
はじめに-曾我兄弟とはどんな人物だったのか
曾我兄弟が生きた時代
曾我兄弟の足跡と主な出来事
まとめ
曾我兄弟が生きた時代
兄弟が生きた時代、それはちょうど世の権力が平氏から源氏に移り変わっている時期でした。源平合戦が幕を開け、平氏は源氏により、次第に滅亡へと追い詰められていきます。彼らの父の敵である工藤祐経は、そんな勢いに乗る頼朝の寵を受けていました。その中で、工藤祐経を討つべく奔走したのが彼ら兄弟でした。
曾我兄弟の足跡と主な出来事
兄・曾我祐成は、承安2年(1172)に生まれ、建久4年(1193)に没しています。そして、弟・曾我時致は、承安4年(1174)に生まれ、建久4年(1193)に没しています。彼らの生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
伊豆の有力官人の子として生まれる
曾我兄弟は、伊豆の国衙有力官人として、伊豆半島海岸一帯に勢力をはった有力武士団・工藤氏に生まれました。ある時、一族の中で、兄弟の祖父・伊東祐親(いとうすけちか)、兄弟の父・河津祐泰(かわづすけやす)父子と、工藤祐経(すけつね)との間で所領相論が起こりました。そして、この対立のために祐経の妻は、親である祐親の許に連れ戻されてしまいます。これに怒った祐経は、安元2年(1176)に伊東祐親を襲い、祐親の嫡子・河津祐泰を殺害したのでした。
曾我氏を名乗り、父の仇討を狙う
父・祐泰が死んだことで、母・満江は同じ工藤一族で、相模国曾我荘(神奈川県小田原市)の曾我祐信(すけのぶ)に再嫁しました。兄弟はここで成育し「曾我氏」を名乗るようになりました。また、当時、鎌倉幕府を開いた源頼朝の寵により勢いを得ていた工藤祐経は、曾我兄弟を殺そうと謀りましたが、畠山重忠(しげただ)・和田義盛(よしもり)らによって救われたとされています。
弟・時致は11歳のとき、稚児として箱根別当・行実(ぎょうじつ)の弟子となります。そこで頼朝の箱根参詣の折、供人の中にいた敵・工藤祐経から見参の初めの引出物として赤木柄の刀を与えられたと伝えられています。その後、彼は17歳のとき、箱根で出家させられそうになりますが、兄・祐成と謀って、夜陰にまぎれて箱根を下ります。そして、北条時政を烏帽子親(えぼしおや)として元服した、と伝えられています。成人した兄弟は祐経を狙いましたが、仇討の機会が得られませんでした。
仇討ちを決意した曾我祐成は、父の仇・工藤祐経が通行するという情報を得るため、酒匂、国府津(小田原市)、渋美(二宮町)、小磯、大磯(大磯町)、平塚などの宿を回ったと言います。そして、大磯宿で、虎という遊女に出会いました。17歳の虎御前と20歳の曾我祐成とは恋仲になり、やがて虎は彼の妾となりました。
曾我兄弟の仇討ち
建久4年(1193)5月、ついに兄弟は工藤祐経の宿を突き止め、仇討の機会を得ます。祐経は、頼朝が催した富士野の巻狩りに同行していたのでした。その夜、兄弟は風雨を冒して侵入し、祐経を殺して父の仇を討ちます。敵討のため祐経の仮屋に討ち入った兄弟は誤って備前国の住人・王藤内(わとうない)を討ち、祐経を討った後、出合った10人の侍たちを斬ったとされています。
そののち、兄・祐成は頼朝の家臣・新田忠常(ただつね)に討たれましたが、弟・時致は頼朝の寝所を目指して進むうちに生け捕られました。翌日、取調べにあたって頼朝はその剛勇を惜しみ、彼を救おうとしましたが、祐経の子・祐時(すけとき)の請いによって、時致は斬られたと伝えられています。
この事件は、兄弟2人の単純な復讐だけではなかったとも考えられています。『吾妻鏡』の性質上明確なものではありませんが、弟・時致が頼朝の寝所に進んだこと、北条時政が何らかの形で関与していたらしいこと、頼朝の弟・範頼は鎌倉にあったが、報知をうけて狼狽した政子に対して自分が居ると慰めた詞をのちに口実とされて失脚・成敗されたことなど、参考とすべき記述が少なくありません。
『曾我物語』の成立と広まり
建久4年(1193)に起こった曾我兄弟の仇討ちは、巻狩りに集まった多くの東国武士に鮮烈な印象を与えました。その東国武士の語る曾我兄弟の話が語り継がれ、それを『曾我物語』としてまとめたのは、箱根権現や伊豆山権現の僧であろうといわれています。ただ、唱導文芸として完成された同書の記述がそのまま史実であるかは、疑問が多いとされます。
『曾我物語』は、兄弟の不運な生涯とその悲劇的な最期が、民衆の間に共感を呼び、文学や芸能の分野でも盛んに取上げられ、次第に脚色されてきました。芸能分野では室町時代には能や浄瑠璃などで取上げられ数多くの作品が生まれ、江戸時代には歌舞伎の世界にも取上げられます。
歌舞伎で「曾我物語」が盛んに上演されるようになると、浮世絵にも描かれるようになり、数多くの「曾我物」と言われる物語絵・武者絵・役者絵等が出版されました。日本三大仇討の一つとして人口に膾炙した『曾我物語』は、幼時からの辛苦に耐えて父の仇を報いた孝心・義挙、兄弟の慈しみの好箇の題材として少国民教育にも多大の影響を与えたとされています。
まとめ
父の仇討ちのために源平時代を生きた曾我兄弟。義経と並んで、伝説化された英雄として今でも人々に親しまれています。歌舞伎や能といった作品を通じて、彼らの生涯を辿ってみてはいかがでしょうか。
文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)