はじめに-後白河法皇とはどんな人物だったのか

後白河法皇は、平安時代末期の第77代天皇です。退位後は、30余年にわたって院政を行い、王朝権力の復興・強化に専念しました。また、源平の争いを中心とする政争・戦乱の陰の演出者とされます。

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源平を翻弄する、中世日本最大のトリックスター(演:西田敏行)として描かれます。

目次
はじめにー後白河法皇とはどんな人物だったのか
後白河法皇が生きた時代
後白河法皇の足跡と主な出来事
まとめ

後白河法皇が生きた時代

後白河法皇が生きた平安末期は、武士・貴族・天皇・上皇の勢力が複雑に入り乱れた時代でした。そんな激動の時代にありながら、30年もの間、後白河法皇は上皇として君臨し続けたのでした。

後白河法皇の足跡と主な出来事

後白河法皇は、大治2年(1127)に生まれ、建久3年(1192)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

鳥羽天皇の第4皇子として誕生

後白河法皇は、大治2年(1127) 9月11日に鳥羽天皇の第4皇子として誕生します。母は藤原公実(きんざね)の娘・璋子(しょうし)=待賢門院(たいけんもんいん)です。その後、久寿2年(1155)に天皇として即位することになります。

後白河天皇のこの即位は、異母弟の近衛(このえ)天皇が17歳の若さで没した後を受けて、29歳で即位するという異例のものでした。このとき鳥羽法皇は、守仁親王(後の二条天皇)に皇位を伝えようとし、その手順として彼の父である後白河天皇を即位させたのでした。

保元の乱が起こる

このことは同母兄である崇徳(すとく)上皇の皇位継承の望みを完全に断つものでした。そのため保元元年(1156)に鳥羽法皇が没すると、崇徳上皇方と後白河天皇方との間に武力衝突が起こります。「保元の乱」と呼ばれるこの戦いは、源義朝(よしとも)、平清盛らの活躍で後白河天皇が勝利を収めます。

勝利を収めた後白河天皇側は、崇徳上皇を配流すると、藤原通憲(みちのり)を重用して政治を取り仕切らせます。その政治は、新制を下し、記録所を設けて荘園整理を行うなど、権力の強化を図るものでした。

院政を開始した後、平治の乱が起こる

やがて保元3年(1158)、後白河天皇は守仁親王(二条天皇)に譲位し、上皇として院政を開始しました。彼の院政は一時の中絶もありましたが、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽天皇の5代、30余年に及んだとされています。

翌年の平治元年(1159)、上皇が重用した信西(=藤原通憲)に反感を抱く人々によるクーデターが起こります。「平治の乱」と呼ばれるこの戦いによって、源氏が失脚し、武力を有する平清盛が勢力を伸ばし始めることとなります。

出家して、法皇となる

仁安3年(1168)、後白河上皇は清盛と謀って二条の子・六条天皇を退位させ、高倉天皇(二条の弟)を立てます。この結果、上皇は自らの反対派を抑え、政治の実権を掌握するに至ります。嘉応元年(1169)には出家して法皇となり、法名を行真(ぎょうしん)と称しました。

平氏との対立

当初、後白河院と平氏とは協調的関係にありましたが、平氏の専権化にともない両者はしだいに対立するようになります。上皇は清盛を貴族社会に引き立ててその勢力を利用しようとしましたが、やがて平氏の勢力が強大になると、今度は逆にその排除を企てるようになります。

出家して法皇となってからは、院近臣の強化、延暦寺や東大寺の僧兵の利用などにより清盛を除こうとしました。治承元年(1177)には、院近臣による平氏打倒の謀議が発覚、近臣数名が平氏によって処罰される事件が起こりました(=鹿ヶ谷<ししがたに>事件)。

平氏の軍事クーデターにより幽閉される

しかし院は、その後も平氏への圧迫を停めず、摂関(せっかん)家に嫁していた清盛の娘・盛子が死ぬと、その遺領を没収するに及びます。こうして平氏との関係が悪化すると、ついに治承3年(1179)11月、清盛はクーデターを敢行し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して院政を停めました。

翌年には清盛の娘・徳子が生んだ安徳天皇(高倉の子)を立て、高倉上皇には名目だけの院政を行わせて、平氏が実権を握りました。しかし弟・高倉との皇位争いに敗れて不満を抱く以仁王が、源頼政を誘って平氏打倒の兵を挙げたのでした。

以仁王・頼政はやがて敗死しますが、王の令旨に応じ、伊豆の源頼朝、木曾の源義仲ら各地の武士が蜂起しました。以後、福原遷都と京都還都、平氏の都落ち、木曽義仲の入京と敗死、源義経の入京と没落、平氏の滅亡と鎌倉幕府の成立と、時局はめまぐるしく変転することとなります。

永き戦乱に終止符を打ち、没する

約1年後に幽閉を解かれた後白河法皇は院政を再開。変転する時局に巧みに処して、没するまで「治天(ちてん)の君(きみ)」の地位を保持し続けました。

寿永2年(1183)に平氏が西走すると、院は比叡山に隠れて平氏との同行を拒否し、かわって入京した源義仲に平氏追討の院宣を与えます。また一方では源頼朝に東国沙汰権を付与し、上洛を促して義仲を牽制しました。この法皇の老獪(ろうかい)さは、頼朝をして「日本第一の大天狗」といわしめたほどでした。

建久元年(1190)、頼朝は上洛して法皇と対面し、法皇の下で頼朝が御家人を率い、日本国総追捕使(そうついぶし)として国家の軍事警察を担当する体制が確立。頼朝上洛の2年後、建久3年(1192)3月13日に、後白河法皇は66歳で六条殿に没しました。

文化的側面

後白河法皇は、深く仏教を信仰し、特に出家後は旺盛な政治活動のかたわら、『法華経』を読誦し、仏道に精進する日々を送りました。諸寺・諸山への参詣も多く、熊野御幸は歴代最多の34回に及んだとされています。

また、芸能を好み、平安時代後期に流行した歌謡・今様(いまよう)を集めて『梁塵秘抄』を編纂しました。即位以前にはその自由な境遇から、昼夜を通して、また老若男女貴賤を問わず、いっしょに今様を歌ったと伝えられています。

まとめ

「武者の世」が到来する激動の時代において、彼らと対決・妥協しつつ権勢の維持に努めた後白河法皇。その地位を可能にしたのは、彼の権謀術数と果敢な行動力でした。まさに平安末期の動乱の世に相応しい人物と言えるのではないでしょうか。

文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/京都メディアライン
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)
『デジタル大辞泉』(小学館)

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