はじめに−北条義時とはどんな人物だったのか

北条義時は、鎌倉幕府第2代執権(在職1205~1224)。父時政の失脚後、執権に。姉である北条政子と協力して承久の乱を鎮圧し、鎌倉幕府の覇権を全国的なものにしました。

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、主役(演:小栗 旬)として描かれます。

目次
はじめに−北条義時とはどんな人物だったのか
北条義時が生まれた時代
北条義時の足跡と主な出来事
まとめ

北条義時が生まれた時代

北条義時が誕生した時代は、政治の実権が公家から武家へと移り変わろうとしている時でした。平治の乱では皇室・摂関家の争いに源氏と平氏がそれぞれ力添えをして争い、平氏が味方に付いた後白河上皇側が勝利。平清盛と平氏一門の勢力が拡大しました。

一方、源氏の総領であった源義朝(みなもとのよしとも)は敗走中に殺害され、源頼朝は伊豆国配流に処されました。

北条義時が生まれた時代とは、まさに武士のための政権、鎌倉幕府成立前夜でした。

北条義時の足跡と主な出来事

北条義時は、長寛元年(1163)に生まれ、貞応3年(1224)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

北条時政の第二子として誕生

北条義時は、伊豆の豪族・北条時政の次男として誕生しました。姉はのちに源頼朝(みなもとのよりとも)の妻となる、北条政子です。通称、北条小四郎(こしろう)、江馬小四郎と呼ばれていました。

平家側であった北条家は、伊豆蛭ヶ島(いずひるがしま)に流された源頼朝を監視する役目を命じられました。ここから北条一族と源氏の関わりが始まったとされます。

源頼朝の側近に

安元2年頃(1176)頼朝は時政の娘・政子と結婚。治承4年(1180)に源頼朝が平氏打倒のために挙兵。義時は父・時政とともに頼朝を助け、相模の石橋山の戦いなどに加わりました。この時、義時の兄である宗時(むねとき)は討死しています。

義時は、治承5年(1181)頼朝の寝所祇候衆(しんじょしこうしゅう)に選ばれました。頼朝の身辺警護する役割であることから、いかに頼朝が義時を信頼していたかがわかります。

宿老御家人十三名の合議制の一人に

文治元年(1185)平氏の滅亡後、東国を中心とした頼朝の支配は西国にも及び、武家政権としての鎌倉幕府が成立しました。その7年後の建久3年(1192)、頼朝は征夷大将軍に任ぜられています。

征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府の政権基盤をより盤石なものにしようとした頼朝は、朝廷との繋がりを強める中、建久10年(1199)急逝。嫡男の頼家が跡を継ぐと頼家の外家である比企能員(ひきよしかず)の勢力が台頭し始めます。

義時の父・北条時政、姉・北条政子らはこれを嫌い、頼家がみずから訴訟を裁くのを停め、13人の有力御家人の合議制を導入することにしました。この時、義時は時政や能員らとともに13名のメンバーに加えられています。なお、父子で選出されたのは、北条父子のみでした。

二代将軍頼家に娘を嫁入りさせていた比企能員は北条氏の台頭を面白く思っていなかったことからもわかるように、13人の御家人たちは決して一枚岩ではありませんでした。

執権となり、幕府の実権を握る

13人の合議制発足以降、幕府の実権をかけた頼家や比企氏と北条氏との対立は激化。建仁3年(1203)ついに時政は比企氏を滅ぼし、将軍頼家を廃します。その後、源氏将軍家の世継ぎは、源実朝に。その後見人は北条時政。こうして、北条氏が鎌倉幕府の実権を掌握したのでした。元久元年(1204)、義時は相模守に任ぜられます。

時政は将軍である実朝が少年であることをいいことに、将軍の威を借りて権力を行使。その後、時政の後妻・牧の方の謀略で、実朝を廃し、娘婿を将軍にしようとしているという風聞が流れました(『吾妻鏡』より)。

義時は政子の命を受け、時政邸にいた実朝を守護。追い詰められた時政は出家させられ、伊豆へと追いやられました(牧氏の変)。時政失脚後、義時は父に代わって執権となり、鎌倉幕府の実権を握ったのです。

建保元年(1213)には13人の合議制の1人、侍所別当・和田義盛を滅ぼし、義時は侍所別当の役職もかねるようになり、政務を独占。名実ともに、北条氏が鎌倉幕府随一の地位を得ました。

承久元年(1219)、実朝は鶴岡八幡宮で頼家の息子・公暁(こうぎょう)に暗殺されます。この時、源氏の血筋は絶え、源氏将軍家は3代で滅びました。

実朝亡き後、鎌倉幕府は京都の摂関家、九条頼経(よりつね)を迎え、将軍に即位させます。しかし実際の幕政は政子を表に立て、弟であり御家人筆頭の執権・義時が実質的に取り仕切るようになったのです。

鶴岡八幡宮

承久の乱で後鳥羽上皇を破り、北条執権政治を確立するが…

鎌倉幕府の台頭により、脅かされ続けてきた朝廷を中心とした体制を復権しようと、承久3年(1221)後鳥羽上皇は、北条義時追討の宣旨を出して挙兵。幕府と朝廷の全面対決である「承久の乱」が勃発します。義時が「朝敵」とされたことで、御家人たちは浮き足立ちますが、北条政子が源頼朝の御恩を説き、御家人たちに奉公を呼びかけたことで、御家人たちは鎌倉方につくことを表明しました。

それでも、朝廷に反旗を翻すということは、当時の人間にとって如何に恐ろしいことであるかとわかるエピソードが残っています。それは、義時も同じでした。『吾妻鏡』によると、承久3年(1221)6月8日の夜、義時の館に雷が落ちました。すでに嫡男の泰時らの軍勢が朝廷軍と戦い、戦果を上げている最中のことです。義時は「頗(すこぶ)る怖じ畏れ」、「上洛は、朝廷を傾け奉らんがため也。然るに今この怪あり。もしや、これ運命の縮まるべき端か」と不安にかられ、大江広元に相談しました。その時、広元は、頼朝の時代にも落雷があったが戦に勝利した、という逸話を話し、義時を励ましたと言います。

結果、承久の乱はわずかひと月で終結しました。圧倒的な兵力を持つ幕府軍に、朝廷軍は全面降伏。京都は占領され、後鳥羽上皇は隠岐(おき)に配流されました。承久の乱は幕府軍の大勝利で幕を閉じたのです。乱の結果、鎌倉幕府の勢力範囲は西国まで拡大。

さらに、義時は朝廷の根幹である天皇の人事も断行。鎌倉幕府が興って以降も、幕府よりも朝廷が上位にありましたが、承久の乱以降は力関係が完全に逆転しました。

しかし、鎌倉幕府の行く末を見届けることなく、承久の乱からわずか3年後の貞応3年(1224)、義時(享年62歳)は急死。病死とされていますが、あまりにも突然だったため、死因には不審がもたれ、妻による毒殺説や近習による刺殺説があります。

義時の死後、政子は三浦義村の協力を得て、義時の子・泰時を3代執権に就任させました。その一年後に政子も死去(享年69歳)。こうして北条政子・義時の時代は終焉を迎えたのです。

まとめ

都から遠く離れた、伊豆国の中でも中程度の力しか持たない北条家に生まれた義時は、晩年朝廷をも上回る権力を握りました。その背景には、姉の政子が源頼朝の妻になったおかげもあるでしょうが、義時の意思と能力があったからこそ、その地位にまで到達したのでしょう。

文/末原美裕(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:  http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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