はじめに-安達盛長とはどんな人物だったのか

安達盛長は、源頼朝の配流時代からその側近として仕えた、鎌倉前期の武将です。頼朝の死後出家しますが、源頼家が将軍につき、「十三人の合議制」ができると重臣の一人となりました。

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、“十三人”の一人であり、頼朝の愛すべき従者(演:野添義弘)として描かれます。

目次
はじめにー安達盛長とはどんな人物だったのか
安達盛長が生きた時代
安達盛長の足跡と主な出来事
まとめ

安達盛長が生きた時代

安達盛長が生まれた頃は、平氏の勢いが源氏を上回る時代でした。平氏は武士として初めて実権を握った平清盛を中心に、政治をほしいままにしていました。その中で、平氏を討つべく挙兵した源頼朝の側近として彼を支えた安達盛長は、後の鎌倉幕府をも支える人物となりました。

安達盛長の足跡と主な出来事

安達盛長は、保延元年(1135)に生まれ、正治2年(1200)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

不透明な出自

安達盛長は、武蔵国の豪族足立氏の一族かと考えられていますが、その出自は必ずしも明らかではありません。日本の初期の系図集である『尊卑分脈』によれば、藤原北家魚名流より出でた小野田兼盛(または兼広)の子とされていますが、信憑性は低いでしょう。

頼朝の側近を務める

通称「藤九郎」とも呼ばれた盛長は、源頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま) の娘婿にあたります。その関係から頼朝に接近し、彼の側近となりました。平治の乱の後、頼朝が伊豆に配流された際に唯一付き従った側近中の側近です。

また、頼朝と政子の結婚に盛長が関わっているとされる逸話が伝わっています。頼朝は北条政子を正妻に迎えていますが、本当は政子の妹を見初めていました。頼朝から彼女に宛てる文を受け取った盛長は、人柄や将来性を鑑みて、政子のほうに文を持っていきました。それにより、頼朝と政子は結ばれることとなったというのです。

頼朝が最も信頼する御家人の一人となる

治承4年(1180)の頼朝挙兵の際には、源家譜代家人の招致に力を発揮します。彼は相模の在地武士を招致すべく各地を廻り、また、千葉常胤(ちばつねたね)の協力を求めるための使者ともなりました。ここから、盛長が頼朝の最も信頼する御家人の一人であったことがうかがえます。

挙兵後には、恩賞として鎌倉の甘縄(あまなわ)に屋敷地を与えられています。甘縄とは、長谷の東部一帯から、佐々目ヶ谷(ささめがやつ)・佐助ヶ谷(さすけがやつ)・無量寺谷(むりようじだに)の辺りまでを含む地域です。『吾妻鏡』には治承4年(1180)12月20日に、「入御藤九郎盛長甘縄之家」と記述されています。

幕府の基盤整備を担う

元暦元年(1184)の頃から、上野国奉行人として国衙在庁に代わって国内公領の収税事務を管轄し、平氏追討には従軍せず、もっぱら東国において幕府の基盤整備を行ったようです。その後、三河国の初代守護も務めることとなります。これは、源氏一門外の武士としては異例の抜擢でした。

国奉行は、鎌倉幕府草創期に源頼朝が勢力下に入れた諸国に置いたものです。盛長が務めた時期に上野の軍事統率権をもつ守護は比企能員(ひきよしかず)でしたが、後には盛長の子・景盛(かげもり)が国奉行と守護を兼ねており、いつしか守護職を包摂したことがわかります。

出家と、安達家のその後

その後盛長は、文治5年(1189)の奥州征伐に従軍し、頼朝の二度の上洛にも供奉しました。しかし、正治元年(1199)、頼朝の死により出家を決意します。法名を蓮西(れんさい)といいます。

また、『吾妻鏡』には盛長の嫡子・安達景盛と二代目将軍・頼家との確執が記されています。景盛には京から招いた妾女がいましたが、頼家は彼が留守の間に、その女性を強引に御所の近くに住まわせました。やがて景盛が頼家に対して恨みを抱いていると讒言する者が現れ、頼家は景盛の誅殺を命じます。

これを聞いた北条政子はあまりに軽率だと一喝し、頼家をたしなめ、事態の収拾を図ったとされています。この出来事を経て、安達家は北条本家に嫁を出す家となり、親戚関係を強めていきます。また、ここで源頼家との確執が起こったことで、安達氏は北条派に走ったとも考えられています。

「十三人の合議制」の一人となる

将軍・頼家の下で十三人の合議制ができた際には、出家しながらも、その一人として鎌倉幕府を支えました。盛長が選ばれたのは、やはり古くから頼朝に寄り添った家臣としての側面が強いと考えられています。

また、頼朝・頼家と二代にわたり将軍からの信認が厚かった梶原景時(かげとき)が失脚させられた事件では、盛長は弾劾派として名を連ねました。そして、正治2年(1200)にこの世を去ることとなります。

盛長の夢見

『曾我物語』には、頼朝の未来を予告する盛長の夢見と、その夢解きをした平権守景信(へいごんのかみかげのぶ)の話が載っています。夢見の要点は次のとおりでした。

「頼朝が矢倉嶽(足柄峠の北にあたる)に腰をかけて酒を3度飲む。箱根参詣の折には、左の足で外の浜を踏み、右の足で鬼界島を踏む。また左右のたもとに月日を宿し、小松3本を頭にいただいて南面して歩む」

景信はこれを、頼朝が過去の憂さを忘れて主上上皇の後ろだてや、八幡三所の擁護によって日本全国を従え、天子の位にまで進む吉夢と占いました。夢告や夢見を信じ、その啓示のもとにしばしば行動した古代・中世の人々の常識からすると、盛長の夢見は頼朝を反平家の謀反に踏みきらせた有力な原因に挙げられます。

まとめ

源頼朝腹心の武将であった安達盛長。無官のままでしたが、幕府草創の功臣として重んじられ、安達氏興隆の基を成した人物であるといえます。彼が頼朝と結んだ篤い信頼関係は、頼朝の死後も「十三人の合議制」の一員となる形で続いていったといえるのではないでしょうか。

文/豊田莉子(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

引用・参考図書/
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

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