鎌田實(医師、作家)

─地域包括ケアのさきがけとなった、健康長寿の導き手─

「今の一分一秒を納得できるように暮らす。それが幸せな人生の本質だと思います」

自宅には4つの仕事場がある。大きな書架のあるこの部屋では長年温めてきたテーマを執筆する。「資料は蓄積が大事。関心を持ち続けることで見えてくることもあります」

──毎月のように本を出版されています。

「僕は今連載を11本持っていて、単行本も昨年は台湾で出された本も入れると8冊。なので最近は『月刊鎌田實』と呼ばれています(笑)。執筆依頼は医療や生き方に関する本が多いのですが、最近は筋力トレーニングに関するリクエストが増えてきました。

僕の口癖は〈貯金よりも貯筋〉です。老後の人生で何が一番頼りになるかというと、自分の筋肉なんですよ。筋肉がしっかりあればバランスを崩して倒れ、怪我をするようなことがぐっと減ります。どれだけお金を持っていても、寝たきりになってしまっては今までのように好きなものも食べに行けないし、旅行も自由に楽しめない。筋肉をつけることこそ健康長寿の基本だという結論から、高齢者でもできる筋力トレーニングのメニューを考案し、自分でも実践しています」

──どんなものでしょうか。

「たとえばワイド・スクワットという方法。両足を肩幅より10㎝ずつ広げ、つま先を逆ハの字に開いたら骨盤をまっすぐ下ろします。できるだけ沈み込んでから、ゆっくりと腰を持ち上げる。1セット10回を1日2セットほど繰り返すと、だんだん美脚美尻効果が表れスタイルがよくなります。筋肉に負荷をかけたときに出てくるマイオカインという物質はある種の若返りホルモンで、血圧や血糖値を下げる働きもあります。筋肉がついてくると気持ちも前向きになります」

健康長寿のためには貯金よりも貯筋。60歳を過ぎたら筋肉を減らさないように心がけ、継続的な軽い運動と、たんぱく質が大事。ワイド・スクワット実践中。

──トレーニングで大事なことはなんですか。

「無理をしないことですね。僕はスキーが大好きで、近くの富士見パノラマスキー場をよく利用します。去年は64日滑りました。朝一番に行き、長さ2.5kmのゴンドラに乗ってノンストップで滑るのですが、3本楽しんだら下の温泉にさっと入って帰ります。若いときのように一日中滑ったりはしません。

筋肉を効果的に増やすために大切なのは食事です。とくにたんぱく質を意識すること。一日に必要な目安は、体重の単位のキログラムをグラムに置き換えた数字に1.2をかけたくらい。僕の場合は今72kgなので一日だいたい86g 。といってもこれは成分量で、肉や魚に換算すると400g になります。肉や魚ばかりこんなには食べられませんから、1日3食の中に納豆や高野豆腐のような植物性たんぱく質、チーズやヨーグルトなどの乳製品を加えます。僕は95歳くらいまではスキーを楽しみたいと思っているし、医師としてもまだまだ現役でありたい。ですから、たんぱく質をしっかり摂って体に適度な負荷をかける貯筋を続けています」

──医師を目指したきっかけはなんですか。

「僕の出身は東京の赤羽です。向かいが大工さんで、右隣は畳屋さん。お米や醤油がなくなると貸し借りする、落語に出てきそうな長屋で育ちました。父親は自動車の運転手をしていました。苦労人で非常に厳しい人でしたが、深い愛情を持った人でした。母は心臓が弱く、僕が小学生のときはずっと大学病院に入院していました。日本で心臓外科手術が始まった頃で、母も執刀を受けることになったのですが、当時は国民皆保険制度ができる前で手術代が桁外れに高かった。父は僕を育てながら、母の治療費を稼ぐために夜遅くまで懸命に働いていました。

のちにわかったことですが、僕は養子だったのですよ。1歳10か月のときに実の親に捨てられたところを、この鎌田夫婦に拾われた。両親とも最後まで口にしなかったのでいきさつはまったくわかりません。こうした境遇のせいもありますが、僕はアフリカで医療活動を続けたシュバイツァーや、炭鉱街の町医者をしていたクローニンのように、弱い人を助ける生き方に憧れるようになりました。学校の成績はよかったので、父に大学の医学部に進んで医者になりたいというと、貧乏人の子どもが医者になんかなれるわけがないだろうと、猛反対されました」

養子であることを知らなかった幼少期。後ろは育ての父と母。貧しい中でもつねに愛情を注がれていた。「僕を拾ってくれたいきさつはわかりませんが感謝しか言葉がありません」

──でも、結局は折れてくれた。

「父は最後に交換条件を出しました。うちは今の暮らしで精いっぱいだから授業料も生活費も自分で稼げ。そして医者になったら、患者さんを怒鳴ったりびくびくさせる医者にはなるな。つねに弱い人や貧乏な人を大切にしろというものでした。さいわい僕は国立大学の医学部に入って卒業後は医者になりましたが、ここ長野県茅野市にある諏訪中央病院へ来た理由はもうひとつあります。

僕が大学に入ったのは学生運動の時代でした。何もわからない新兵のような感じで、バリケードを築くのを手伝ったくらいの記憶しかないのですが、僕は当時よく口にした〈自己否定〉という言葉にけじめをつけたかったのです。大学に残るという選択もあったのですが、そもそも全共闘はそういう社会構造を否定してきた運動です。地方医という生き方を選び、立場の弱い人たちと共に生きていくことで自分の中の矛盾が解決できると思ったのです」

「高度な医療体制がないのなら救急車で運ばれる人を減らそう」

──今から48年前のことですね。

「同級生では東京を離れたのは僕一人だけでした。当時はどこの地方も弱小病院は医師不足に悩んでいました。ひとり医者が辞めると救急医療の受け入れにも困りました。諏訪中央病院もそんな病院で、稼働ベッド数は70床くらい。医師が4〜5人。間もなく知ったのですが、累積赤字が4億円くらいありました。赴任した日、茅野駅からタクシーの運転手さんに病院名を告げると、聞いたことがないという。地元の人にさえ知られていない、閑古鳥が鳴くような病院でした」

──地方医療の現実を見せられた。

「公立病院なので、議会では売却してはどうかという議論も出ていました。けれど当時の市長は、命を守る病院は地域の要だという揺るぎない信念を持っていました。お金の問題は自分の責任。先生たちはいい医療をやってくれればいいと。すばらしい理念でしたが、患者さんはなかなか来てくれませんでした」

──どのように変えていかれたのでしょう。

「予防医学の重要性に気づいたのです。長野県は脳卒中が多かった。野沢菜の漬物だけでご飯を2杯、3杯と食べ寒い外仕事に出るような生活習慣も原因です。残念ながら、ここには都会のような高度な医療体制は整っていない。それなら脳卒中になって救急車で運ばれる人を減らそうと考えました。

年間80回、勤務が終わってから各地域の公民館を回り『脳卒中で死なないために』という健康づくりの講演をしました。当時、脳卒中は後遺症が残るといわれていたので、市民の皆さんは倒れたら治してくれる高度医療よりも、倒れないための予防医療をまず希望するはずだと考えました。食事に焦点を当てた健康づくり運動を進めていくと、結果が出始めました。高血圧の率が下がり、脳卒中で病院へ運ばれてくる人の数も減ったのです。そのことが知られ始めると、健康管理をしようという意識を持つ人が増えてきました」

──すばらしい動きです。

「ほろよい勉強会という集まりも生まれました。保健師さんなど地元を中心としたいろんな職種の人たちが集まって、地域のために何ができるか腹を割って話し合う会です。そんな席で、1年以上もお風呂に入っていない寝たきりの高齢者がいるという話を聞いたのです。驚いて訪ねてみたのですが、悲惨でした。お嫁さんひとりで365日介護をされていました。疲れ果てていて、お風呂に入れてあげることもできないと泣いている。こういう方々を楽にしてあげる方法はないものか。考えついたのが、病院が車で迎えに行って高齢者を1日お預かりする、現在デイケアと呼ばれているしくみです」

──人に寄り添う医療です。

「このとき思ったのも、もし自分が寝たきりになったら何をしてほしいかということでした。ささやかなことでも、生きていてよかったと思える実感が大事なはずだ。つまり目配りの利いた温かい医療です。都会では難しいけれど田舎ならできることをアイデア化して続けていると、日本中から注目されるようになりました」

──地域包括ケアのさきがけですね。

「当時の厚生省の方も話を聞きにこられ、できたのが介護保険制度です。僕たちがデイケアを導入できたのは公立病院だったからですが、同様の取り組みを民間でもできるようにしたのが介護保険制度でした。在宅ケアや終末期の緩和ケアにも取り組みました。すると、こんな田舎の病院を若い医師たちが訪ねてくるようになりました。大学では教えてくれなかった温かい医療を学びたいというのです」

弱い人、困っている人を見ると放っておけない性格で、内外の医療支援活動にも精力的に取り組む。写真はイラクの難民キャンプでの健康教室。国連支援の食料は油脂と糖質に偏り、運動不足とあいまって生活習慣病の人が多い。

「医療から取り残された人々の心に寄り添い続けるのも医師の役目」

──取り組みが多くの人の心に響いた。

「安心できる病院という評価が高まったことで、地元の長野県だけでなく東京や名古屋からも患者さんが来るようになりました。医療人材も集まるようになりました。経営が安定するにつれ、救急医療、高度医療体制も充実させることができました。僕は39歳で院長になり56歳まで経営責任を負いましたが、赤字だった年は一度もありません」

──温かい医療という言葉が印象的です。

「医師、病院は命を助けてなんぼの仕事。その思いはいつもあって高度医療、緊急医療も意識してきましたが、都会の病院に追いつくまでに時間がかかりました。けれど、結果的にはよかったと思います。患者さんにやさしい温かい医療や予防医療の比率は、医療全体でいえば5%くらいのものです。人は誰でも死ぬのだけれど、最期は体も心も安らげる幸せな医療を受けさせてあげたい。諏訪中央病院が注目されたのは、その5%が持つ意味の重さに多くの人が気づいたからです。おかげで、医療の骨格である95%の部分も充実させていくことができました」

自宅での主な執務は、父親の名を冠した「岩次郎小屋」というログハウスの棟で行なう。名誉院長を務める諏訪中央病院には週2回出勤。がん末期患者の緩和ケア病棟などを回診したり、予約外来の診療をしている。

──医療の今後をどのように見ていますか。

「人工知能や手術支援ロボットを使った医療が進むのだろうなと思います。脳卒中で倒れた人を治すような高度医療は、どんどんよくなる。しかし、取り残される患者さんは必ず出てくる。こういう人たちを医療は置き去りにしてはならない。温かな医療の比率は医療全体では5%くらいのものだといいましたが、その5%の重みはさらに増すはずです。

今の医療問題の背景には縦割り化の弊害もあります。たとえば心臓が悪そうだとなると循環器科に回されます。けれど高齢者は糖尿病や高血圧症など複数の病気を抱えていることが多い。対応の順番がとても大事なのです。僕たちは初診が治療の入口だと思っていて、患者さん個々に合わせた治療計画を最初に立てられる優秀な総合医も育ててきました。こうしたソフトも重視されていくでしょう」

──つねに患者の身になるということですね。

「医学の医は旧字では醫と書きます。この文字は3つの意味からできているそうです。医は矢を引く、つまり技術。殳は奉仕を示し、酉は祈りや願い、癒しを意味しています。僕たちが目指してきたのは、この画数が多い醫です。医学というのは科学技術で病を究明していくことですけれど、いつの間にか奉仕の意味が置き忘れられている気がします。

そして、どんなに医学が進歩しても人は死から免れることはできません。余命を知らされた患者さんは最初は否認して怒り、次に何かにすがろうとします。これを僕たちは取引と呼んでいます。取引をあきらめると抑鬱期に入ります。こうした心の衝撃を和らげるのも医師の役目です。終末期の患者さんの気持ちを穏やかな受容へと変化させてあげる。大切なのは心に寄り添い続けることです。

長生きはよいことですが、それだけが人生の価値ではありません。自分は充分に生きたと納得できるかどうか。つまり密度です。そのためにも今の一分一秒を大切にする。そこに尽きるのではないかと思います」

壮年を過ぎたら、30分に1回は仕事の合間に散歩やコーヒータイム、軽い運動などを取り入れるのが長続きのコツ。自身も励行する。後ろは自宅のテラスから見える八ヶ岳。

鎌田 實(かまた・みのる)
昭和23年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県茅野市諏訪中央病院へ赴任。地域包括ケアのさきがけとなるしくみを作り、長寿で医療費の安い地域へと導く。チェルノブイリ原発事故後、ベラルーシの放射能汚染地域へ医師団を104回にわたり派遣。イラクへの医療支援、国内の被災地支援にも注力。諏訪中央病院名誉院長、地域包括ケア研究所所長。『がんばらない』(集英社)など著書多数。

※この記事は『サライ』本誌2022年3月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/鹿熊 勤 撮影/宮地 工)

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