経済人としての立場で戦争を見つめた渋沢栄一。

12月26日に最終回を迎える『青天を衝け』。渋沢栄一(演・吉沢亮)が駆け抜けた「明治」は日清・日露の両戦争を経て、日本が一等国へ駆け上がっていく過程でもあった。国際的な立場を得た日本だったが、その後も戦争は続いた。渋沢栄一はどのように戦争とかかわったのか?

かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

経済人として、日本の発展、近代化、そして国民生活の向上を望んでいた渋沢栄一(演・吉沢亮)は、基本的に戦争には反対だった。明治政府が発足してから、日本は台湾出兵、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変といった対外戦争を繰り返した。戦争は、勝敗にかかわらず巨額の国費を蕩尽する。膨大に膨れ上がった軍事費は、過大な税負担というかたちで国民生活を圧迫する。数百に及ぶ起業を通じて近代日本の資本主義経済を作り上げた渋沢からすれば、その貴重な成果である経済基盤や国家財政を、大砲一発や戦艦一隻で湯水のように消費してしまう戦争は、きわめて不合理に見えたのだろう。

言い方をかえれば、渋沢の根底にあったのは「戦争は割に合わない」という、経済人の合理主義にもとづく、戦争に対する否定的感情であったと言えるだろう。それは、人と人とが殺し合うこと自体を道徳的に厭い、絶対平和を望むような、人道的平和主義とは少々異なる。もちろん、渋沢も人命を軽んじていたわけではないが、あたかも本質的な平和主義者であったかのように扱うのは、必ずしも正しくないということだ。

その証拠に、日清・日露戦争のおり、もはや戦争は避けられないという事態に至ると、渋沢は義援金の取りまとめに協力した。日露戦争の際は、かねて戦争反対を唱えていた渋沢の元を陸軍の児玉源太郎が訪ねてきた。のちに満州参謀総長として日露戦争を勝利に導く働きを見せた児玉は、渋沢に当時の国際情勢をこんこんと説き、日露開戦が避けられないことを告げ、財界を挙げて軍事費の調達に協力してほしいと依頼したのだ。

児玉の説得を受けた渋沢は、軍部が財界の影響力を認めて協力を求めてきたことを大いに喜び、反戦論を引っ込め、戦時公債を各企業が積極的に引き受けて戦費調達に協力するよう奨励するようになった。

戦争が避けられないならば、せめて勝利を収めて経済的な利得を得ようという強烈なリアリズムが働いたのかもしれない。しかし、節操がないと言えないでもない。かつてともに日露戦争反対の論陣を張っていた井上馨は、渋沢の変貌ぶりに驚いたと語っている。ちなみに渋沢は、日清・日露・第一次世界大戦の戦後に開催された戦勝祝賀会には必ず出席している。

渋沢栄一がかかわった平和運動と軍縮

渋沢にとって、国家経済を圧迫する戦争は、積極的に支持することは絶対にできないネガティブ・ファクターであったが、現に国際紛争が存在する以上、戦争に至ればこれに積極的に協力して何としても勝利を収めたかったのだろう。

しかし、やはり戦争はやらないにこしたことはない。渋沢は、国際的な軍縮の動きや、国際平和運動には何の躊躇もなく積極的に尽力した。

第一次世界大戦後の大正10年(1921)から翌年にかけて、ワシントン軍縮会議が開かれた。史上初の国際的な軍縮会議で、軍備拡張に歯止めをかけて、各国海軍の主力艦保有率を決定するという画期的な成果を上げたできごとだった。

日本からは加藤友三郎海軍大臣が首席全権として参加した。当時、首相の原敬や渋沢が中心となり、日英、あるいは日米の経済関係を密接にする目的で英米訪問実業団が結成されていた。団長には、三井財閥の総帥である団琢磨が就任していた。ワシントン軍縮会議には、この英米訪問実業団も参加していたが、渋沢本人は「国民の一員」としてこの会議を視察し、日米親善に尽くしたいと、オブザーバーとして渡米した。

そして、ワシントンやニューヨークで海軍の軍縮案に賛成することをいち早く表明している。海軍軍縮条約には、海軍内部や海軍出身者の間に根強い反対があり、これをいかに説得するかに日本政府は苦心していた。渋沢は、日本政府が軍縮案を受け入れやすい環境を作るため、こうした活動をしたのだ。

渋沢は、江戸時代後期に生まれて尊王攘夷の活動家や幕臣、明治政府の官僚を経て、経済人となった人物だ。富国強兵を掲げる明治日本を作り上げてきた当事者の一人でもある。その時代的な制約から完全に逃れることはできない。戦争を、その経済的な非合理性のゆえに批判したとしても、国策としての戦争全般を否定することはできない。

にも拘わらず、国際親善や平和運動、そして軍縮にも積極的にかかわったという事実は、今日でいうところの「平和主義」「反戦」という美しい言葉には必ずしも当てはまらなくとも、十分に評価できるものではないだろうか。

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。

 

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