慶喜が謹慎生活を送った静岡宝台院
(『徳川慶喜公伝』4より 国立国会図書館蔵)

フランスから日本に戻ったら幕府は瓦解(がかい)し、旧主徳川慶喜は謹慎中の身。どうする渋沢栄一。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

フランスから日本に帰国した渋沢栄一(演・吉沢亮)は、故郷の深谷に帰郷したのち、静岡に向かった。主君の徳川慶喜(演・草彅剛)は、明治元年(1868)7月に水戸藩から静岡に移送され、常磐町の宝台院という寺院の庫裏にしつらえられた座敷で謹慎生活を送っていた。

静岡に向かった時の心境を、渋沢は次のように語っている。

自分は人より優れた技能や才能があるのでもなく、恩顧をこうむった主君の慶喜は駿河で謹慎中の身だ。同志であった親友(渋沢成一郎=喜作/演・高良健吾)は箱館戦争で賊徒(ぞくと)と呼ばれながらも官軍と戦っている。新政府の中心で威張っている人たちは、いずれも見ず知らずの公家か諸藩の藩士、あるいは草莽(そうもう)から成りあがった人ばかりで、知り合いは一人もいない。思い返してみると、昔は幕府を倒そうと苦慮していた自分が、反対に幕臣として倒される身となり、戻るべき国を失い、ほとんど何もすることがなくなってしまった。残念でもあり、非常に困ったことだ。とはいえ新政府の羽振りのよい人たちに頭を下げて役人になるのも心に恥じるところがある。当初の志とは違うとはいえ、いったんは慶喜公の御恩を受けたのは間違いないから、駿河に行って一生を送ることにしよう。駿河に行ってみたら何かなすべき仕事があるかもしれない。もし何もなければ、農業をするまでだ——。

渋沢が謹慎中の慶喜に謁見したのは、同年12月23日のこと。慶喜の弟昭武(演・板垣李光人)とともに無事に帰国したことを報告する渋沢に、慶喜は欧州での体験談を聞くだけだったという。渋沢が現在の心境を尋ねても、新政府への批判や不満は口にせず、「いまさらそのような繰り言は仕方ない」と語るのみだったという。

その後、渋沢は、徳川宗家の当主(家達)を知事とする駿府藩(のちの静岡藩)の藩庁に突如、呼び出され、藩の財政を担当する勘定組頭を命じる辞令を渡される。渋沢は、自分は民部公子(昭武)の直筆の手紙を預かって前当主である慶喜に届けに来たので、早くその返事をもらって水戸の昭武に届けなければならない。したがって、そんな辞令は迷惑なので受けかねると返事をした。

すると、藩政を預かる中老の大久保一翁から、昭武への返書は別に届けるから、お前は静岡にとどまっておとなしく勘定組頭の職に就くようにとお達しがあった。

これを聞いた渋沢は憤慨した。勘定組頭の上役である勘定頭を務める平岡準の前に辞令を放り投げ、「ヘエそうですか。でしたらこんな辞令は受けられませんから、わたしゃ御免蒙ります!」と言い放つと、そのまま宿舎に帰ってしまったという。

水戸藩の要請を慶喜が断った理由

困ったのは勘定頭の平岡で、あわてて渋沢と旧知の部下、大坪という人物を渋沢の宿に使わして事情聴取させた。いったい何が気に食わんのだ、と。

渋沢は一気にまくしたてる。

中老(大久保)とか勘定頭(平岡)とか役名は立派でも、世間の有様が見えぬのは困ったものだ。自分は今日、わずか七十万石に領地を減らされて貧乏になった駿府藩から給料をせしめようと思ってきたわけではない。海外渡航を慰労するつもりで米百俵か七十俵の禄を下さるのだろうが、自分はそれを甘んじて受けるつもりはない。

昭武様がヨーロッパに行ったとき、博覧会が終わったら学問に取り組むよう慶喜公から命じられたので、昭武様も自分たちも一生懸命に学問に精進するつもりだった。しかし、日本で政治の大変動が起きたので、やむを得ず帰国したのだ。実に無念なことで、昭武様もすぐに静岡に来て慶喜公に拝謁し、慶喜公のお心を慰めたいと思ったのだが、慶喜公は謹慎中なのでそれもできない。だから仕方なく手紙を書いて、詳しくは渋沢に説明をさせることにした。昭武様は、一日も早く返事を書いてもらい、慶喜公がお元気な様子を渋沢から聞くのをずっとお待ちなのだ。兄弟としてもっともな人情ではないか。

それなのに、返事はこっちで出しておく、お前は藩の用事があるから、そのまま役職について仕事をしろとは、あまりに人情を知らない対応だ。たとえ慶喜公がそういう命令を下したとしても、お側に仕えるものが人情と道理をわきまえていれば、そんな処置はできるわけがない。そんなこともわからない連中がそろっているから、こんな有様になったのだ。主君は辱められ、領土は削られ、臣下の者はただ生きながらえて新政府の憐れみを乞い、藩士たちが知恵を絞って出した結論が、なんとか所領を百万石に増やしてほしいという有様だ。そんなダメな連中ばかりそろっている静岡になど住みたくもない。

大変な剣幕だ。大坪は「上へ伝えます」といって引き下がった。

翌日、改めて大久保に呼び出された渋沢は、藩庁に向かう。当然、まだ怒りは収まっていない。大久保は、渋沢にこんこんと事情を説明する。

昨日伝えた措置は、すべて慶喜公が自らお決めになったことなので、その方に立腹されては、はなはだ迷惑である。

渋沢も引き下がらない。ではなぜすぐにお返事を下さらない。なぜその返書を私が水戸に持ってゆくのを邪魔するのか。

大久保は、慶喜の真意を説明する。

実は水戸藩から、その方を水戸藩にくれという申し出があったのだ。しかし慶喜公は、もし渋沢が水戸藩に移れば、ヨーロッパ歴訪で気心の知れた昭武が重く用いようとするだろう。そうなれば水戸藩士の嫉妬をかい、渋沢に危害が及ぶかもしれぬ。たとえ危害が及ばなくても、そんな状況では水戸藩でまともな仕事をすることはできないだろう。

水戸藩といえば、急進派の天狗党と守旧派の諸生党の激烈な対立で知られるように、常に藩内に火種を抱えている火薬庫のような藩だ。天狗党の乱ではそれを取り締まる立場に立たされた慶喜も大変苦労したし、渋沢の恩人でもあった一橋家の重臣、平岡円四郎や原市之進が過激な尊王攘夷を掲げる水戸藩士に殺害されたことも記憶に新しい。

慶喜は、渋沢の身の上を案じて「駿府藩でやらせるべき仕事があるから水戸藩への移籍を断れ」と言ったのだと、大久保は渋沢に説明した。さらに、もし昭武への手紙を渋沢に持たせて水戸に遣わしたら、君臣の情から渋沢はきっと昭武の元を離れられなくなるだろう。だから返事は別ルートで出すことにしたのだ、と。

徳川慶喜という人は、高貴な育ちであるにもかかわらず、波乱万丈の生涯をおくったためか、妙に人情に通じているところがある。もちろん、有能な渋沢を手元に置いておきたいという実利的な理由もあったかもしれないが、少なくとも、このように主君に身の上を心配されれば、渋沢とて我を通すことはできないだろうという計算は働いていたはずだ。

案の定、渋沢は慶喜の深い配慮に感じ入り、前言を撤回し、返書を水戸の昭武に届けるのは断念した。

しかし、さすがに頑固者として知られる渋沢、勘定組頭への就任だけは受け入れず、再三の要請にも首を縦に振らなかった。

振り上げたこぶしの落としどころがなかっただけかもしれないが、渋沢本人は、自分が静岡に移住を覚悟したのは、世捨て人となって慶喜公の近くに仕えようと思ったからで、身の栄達を望んではいなかったから勘定組頭を断ったのだと説明している。

ところが、ここが渋沢の面白いところで、この説明に付け足して、当時の自分の正直な感想も語っている。

——明治の新しい世になったのだから、藩の制度だってこのままということはないだろう。そうなればせっかく役職をもらってもあまり意味がないし、多少出世しても本来の自分の志とは異なるので、やっぱり血洗島村でやっていた農業や商業に携わった方が安全だろうと思った——。

「もう武士の世も終わりだ。俺がやるべきはやっぱり農業か商売だな」と思ったというのだから、ずいぶんと現実的な判断もしていたのだ。「世捨て人」云々というのは、図らずも「敗者」のひとりとなった渋沢の「ポーズ」に過ぎないだろう。運命のいたずらか、尊王攘夷の志士を経てついに幕臣にまでなった渋沢だが、ここに至り、それが自分の本来の姿ではないと改めて自覚したのだ

それは、やがて商売の道へと転身する、渋沢の行く末を暗示するものだった。


安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

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