渋沢栄一が存続に尽力した養育院を前身とする健康長寿医療センター(東京都板橋区)の渋沢栄一像。

1年に渡る「渋沢栄一の物語」もいよいよ佳境。渋沢栄一はどれだけ名を成そうが、旧主徳川慶喜のことを疎かにすることはなかったばかりか、その顕彰に私財を投入した。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

渋沢栄一(演・吉沢亮)は、かつての主君、徳川慶喜(演・草彅剛)が世に隠れるように長い長い余生を送っていることに心を痛めていた。旧幕臣や、戊辰戦争において旧幕府側について新政府と戦った東北諸藩の出身者は、明治の世では「日陰者」として扱われて出世もできなかったという印象があるが、実際はそうとも言い切れない。旧幕臣のなかには優秀な人材があまたいたため、その才能が惜しまれて明治政府に活用されたということもあるだろうが、実際問題として、出身による差別的な人事を、あからさまに、そして恒常的におこなうことなどできなかったのだろう。

さすがに首相ともなると、東北出身者は大正時代の原敬の登場を待つしかないが、陸軍では、戊辰戦争時に桑名藩の雷神隊を率いて最後まで明治政府と戦った立見尚文(鑑三郎)のように、陸軍大将として明治陸軍の中枢を担った人物もいた。

明治19年(1886)に発足した日本の知の頂点である帝国大学(のちに東京帝国大学、東京大学)では、初代から6代目までの総長のうち、初代渡辺洪基(元彰義隊士)、2代加藤弘之(旧幕臣)、4代外山正一(旗本子弟)、5代菊池大麓(旧幕臣・箕作麟祥の従弟)、6代山川健次郎(元白虎隊士)と、なんと5人までもが旧幕臣系の人材だった。

つまり、旧幕臣や奥羽越列藩同盟関係者に分類されるような人物も、それほど差別的な扱いを受けていたわけではなく、その能力に応じてかなりの程度、立身出世を遂げていたということなのだ。こうした現実に照らしてみると、まるで隠者のようにひっそりと暮らす徳川慶喜の境遇に、渋沢が心穏やかではいられなかったのも理解できるだろう。

では、慶喜を明治政府に出仕させて大臣でもなってもらうか。いや、それは無理な相談だろう。そもそも身分が違う「殿様のなかの殿様」とでもいうべき慶喜が役人になれば、周囲の人間が気を使わざるを得ないし、もしぞんざいに扱いでもすれば、「戊辰の恨み」を思い出して怒り出す者もいるかもしれない。可能性があるとすれば宮中で明治天皇に直接仕える宮内省の侍従職にでもつけるしかなかったろう。

いずれにせよ、幕末維新を記憶にとどめる世代がいるうちは、明治政府を敵視して慶喜を政治的に利用とする連中も出てくるかもしれないし、彼らを警戒する者もいるだろう。一つ間違えば、何十年にも及ぶ隠棲が、人生の半分を超える隠忍自重の日々が、すべて無駄になってしまうかもしれない。そう考えると、いまさら慶喜を政治の表舞台に立たせるのは、どう考えても得策ではない。

徳川慶喜より先に受爵した渋沢栄一

明治中期以降になると、旧幕臣や江戸の市民を中心に、江戸時代(徳川の世)を懐古する文化的な機運が出てくる。旧幕臣や水戸出身者が作った江戸会という文化サロンでは、機関誌『江戸会誌』を発行して江戸時代の懐旧譚を採録するなど、江戸時代の実態や生活文化を後世に伝える活動を始めていた。現在のわれわれが江戸時代の姿を具体的にイメージすることができるのは、こうした江戸文化の掘り起こしがなされ、それが時代小説や時代劇に反映されたからなのだ。

ちなみに、明治の前半に議会開設を求めて各地で勃興した自由民権運動も、薩摩や長州が牛耳る明治政府への反発が、動機の一つとなっていた。江戸文化研究家にして時代考証家の三田村鳶魚(えんぎょ)も、かつては自由民権運動の闘士であったことはよく知られている。運動に挫折した鳶魚は、薩長が作った明治の世に対するうっぷんを晴らすかのように、江戸時代の懐古的な研究に後半生を捧げることになる。

渋沢は、おそらくこうした時代背景なども考慮しつつ、明治26年(1893)頃に徳川慶喜の伝記編纂に着手した。主たる目的は、明治維新時における慶喜の行動とその真意を後世に伝えるというところにあったという。

慶喜は鳥羽伏見の戦いあと、戦いを継続することなく、江戸に帰って恭順の意を明らかにした。これは、旧幕府軍と新政府軍とが本格的な戦闘に入り、戦火が全国に波及して大混乱となることを回避するためであり、徳川家が朝敵の汚名を着るのを回避するためだった。

この慶喜の決断のおかげで、多くの血が流れずに明治維新は実現したのだ。つまり、逆賊と言われて後半生を隠者のように送っている慶喜は、新たな時代を切り開いた恩人であった。西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允に勝るとも劣らぬ功労者だったのだ!ということをアピールしようとしたのだ。

主君の名誉挽回、汚名返上のために伝記を作る。渋沢こそ、まさに「忠義の士」であり、家臣の鏡というべきか。

しかし、冷静に考えてみれば、これはいささか強引な釈明だろう。鳥羽伏見の戦いに敗れたあと、大坂城にあった慶喜は、新政府への徹底抗戦の構えを見せて、薩摩憎しで激高している配下の兵を欺き、大坂城を脱して江戸に逃げ帰ったのだ。

上に立つ者として、非難を受けても仕方がないではないか。

それでもなんとか慶喜の「弁明」を世に出したいという渋沢の心情は理解できないわけではない。家臣である自分が経済人として名を成し、主君を差し置いて世に隠れもせぬ名士となったことを心苦しく思っていたのは間違いない。渋沢はちょうど慶喜の伝記編纂が中断していた明治33年(1900)に男爵の爵位を授けられた(のちに子爵)。旧主慶喜が公爵となったのは、その2年後のこと。そのあたりの心苦しさも、伝記編纂を後押ししたのかもしれない。

卓越した渋沢栄一の歴史感覚

徳川慶喜の伝記編纂は、当初、ジャーナリストの福地源一郎に依頼されたが、なかなか作業が進まず、さらには福地が病気で亡くなってしまったため、改めて明治40年(1907)に歴史学者の三上参次、萩野由之らを監修者として編纂が再開され、大正7年(1918)に『徳川慶喜公伝』全8巻がようやく刊行された。

『徳川慶喜公伝』の編纂過程や執筆の様子については、残念ながら詳しいことは明らかになっていない。編纂は当初、深川福住町の渋沢栄一邸でおこなわれ、のちに兜町の栄一の事務所に場所を移した。編纂終了後、関係書類や編纂に使用した資料は兜町の事務所に保管されていたのだが、大正12年9月におきた関東大震災によって、その大部分が焼失してしまったのだ。

震災後の調査記録によると、『徳川慶喜公伝』の稿本(草稿)や、慶喜への聞き取り調査の記録である「昔夢会筆記」の原本、さらには引用した史料、文献資料、編纂の事務・経費書類など、編纂に関する記録・資料類のほとんどが震災で焼失してしまったという。ごく一部だけ残った草稿などは、いまも飛鳥山の渋沢史料館に保存されている。

渋沢栄一という人は、歴史的な感覚が優れていたようで、古いものはただ捨ててしまうのではなく、歴史にしっかりと記録すべきだという意識を持っていたと思われる。

渋沢は、東京養育院の存続・運営に力を尽くした。この養育院という窮民救済のために設けられた施設は、江戸の町で機能していた「江戸七分積金」という基金(積立金)をもとにしている。この基金が、江戸後期の老中松平定信がおこなった寛政の改革に由来することから、渋沢は定信に特別な思いを抱いていたようで、定信の祥月命日に必ず養育院に足を運んでいたという。

渋沢は徳川慶喜の伝記編纂を終えた後、松平定信の伝記編纂にも着手している。この伝記が『楽翁公伝』(楽翁は定信の号)として刊行されたのは渋沢の死後だった。そういう渋沢であるから、『徳川慶喜公伝』を編纂した背景には、主君に弁明の場を提供したいという「私情」だけではなく、歴史の記録をしっかり残そうという純粋(?)な動機もあったのかもしれない。

渋沢がいかに歴史を大事に考えていたか。それを目に見えるかたちで示しているものが、いまも都内に残っている。渋沢は、江戸時代の街道筋に作られた一里塚を、後世のために保存すべきだと考え、そのために力を尽くした。東京都内には、板橋区の志村と北区の西ヶ原の2カ所にいまも一里塚が残っているが、これは歴史を大事にする渋沢の歴史感覚のたまものなのだ。

渋沢栄一が保存を訴えかけた街道の一里塚のひとつ、志村一里塚(東京都板橋区)。


安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。

 

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