大河ドラマの主人公・渋沢栄一。幕末から明治にかけて、名乗りを変えていたことが知られている。〈えいいち〉の名乗りも実は〈ひでかず〉が正しいのだという。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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渋沢栄一(演・吉沢亮)は「栄一」ではなかった。
などと書くと不審に思われるかもしれないが、栄一にはいくつもの名前があり、人生の折々で改名をしたことは広く知られている。
前近代の人物、とくに男性の場合、幼名があり、本名があり、日常的に使われる通名・通称があり、死後の名乗りとしての諱(いみな)があるのは普通のことで、人によっては詩文や芸事で使用する雅号(号)を使う場合もあった。
しかし渋沢栄一の場合、あまりにも名前のバリエーションが多く、いつどの名前を使ったのかも混乱していて分かりにくい。伝記などをみても、混乱を避けるために「栄一」で通しているものが多い。もちろん『青天を衝け』でも、幼少期から一貫して「栄一」だ。
ここでは、改めて栄一本人の証言などをもとに、整理してみたい。
まず天保11年(1840)の出生時、父親の渋沢市郎右衛門(演・小林薫)は息子に何という名を与えたのか。「市三郎」と記す史料(『渋沢栄一伝稿本』)もあれば、「栄二郎」とする史料(『渋沢栄一自叙伝』)もあって、どちらとも判断がつかない。
「市三郎」説では、やがて「栄治郎」に改めたとしているが、他の史料では「栄次郎」としている例もある。
こうなると、「エイジロウ」の「ジ」の文字は「二」「治」「次」と3通りもあって、なにがなんだかわからない。昔の人は、そのあたりは「大雑把」だったのだ。
「市三郎」であれば三男であった可能性があるし、「栄二郎」であれば次男だったのかもしれない。渋沢本人の証言では、兄がいたのは間違いないが、渋沢が生まれたときにはもう亡くなってしたとのことで、兄が何人いたかもわからない。
やがて「栄二郎」(あるいは栄治郎・栄次郎)から、12歳前後に実名を「美雄」と改め、さらに伯父で「東の家」の当主、渋沢元助(誠室)の命名で「栄一」と改め、以後これを「通称」としたという。
17歳のとき、従兄弟にして学問の師である尾高惇忠のアドバイスで、「栄一」を「名乗り」として「字(あざな)」を「仁栄」としたとも言われている。「仁栄」のよみは「じんえい」であろうか。
とぼけた渋沢栄一が認めた本当の名前
しかし不思議なことに、これ以降、通称は「栄一」ではなく「栄一郎」を用いていて、元治元年(1863)に一橋家に出仕するまでは、この「栄一郎」を使っていたらしいのだ。
ところが、この「栄一郎」が謎の名前で、晩年の渋沢への「聞き書き」をまとめた『雨夜譚会談話筆記(あまよがたりかいだんわひっき)』を見ると、渋沢本人は「そんな名前はなかった」「なにかの間違いでは」などと、とぼけたことを言っている。
しかし、「聞き書き」を行なった研究者が調べたところ、藍玉の商売で訪れた信州には、渋沢本人が「栄一郎」と署名したたくさん文書が残っているので、「なにかの間違い」などでないのは明らかなのだ。
聞き手となった経済学者で東京大学名誉教授の土屋喬雄は、「栄一郎」の署名がある史料を示して、渋沢本人の見解をただしている。渋沢は「なるほど、この署名は私の字だ(中略)しかし私は自分で栄一郎と呼んだ覚えはないがネ。何かの間違いだヨ」と、あくまでもはぐらかしている。
土屋喬雄は、「記憶力絶倫ナリシ栄一トシテハ不可思議ノ事ナリ」と、書き残している。
土屋の調査によれば、安政6年(20歳)から慶応元年(26歳)ごろまで、しきりに「栄一郎」を使っていた節があるという。
この時期は、渋沢が「尊攘の志士」として活動していた時期であり、憶測にすぎないが、もしかすると非合法的な志士活動に手を染めていたため、その当時の痕跡(記憶も)を消し去りたいと思っていたのかもしれない。
さて、「栄一」もしくは「栄一郎」を通称として用いていた渋沢は、すでに触れたように元治元年に一橋家に出仕する。
ここで、渋沢をスカウトしてくれた平岡円四郎が、「武士らしい名乗り」として「篤太夫」という名を考えてくれた。平岡は「お前が道徳に心掛けがあるようだから、篤という字がよかろう」と語ったという。
その後、パリ万博への参加、帰国を経て、世の中は明治に移り変わる。
そして明治2年(1869)、徳川宗家は静岡藩に代わっていた。明治政府は、「太夫」だの「衛門」だのといった、時代がかかった名乗りを改めよというお達しを出す。これに対応し、渋沢も「篤太夫」を「篤太郎」と変更した。
その同じ年に渋沢は明治政府の民部省に出仕することになる。
そのとき、渋沢は正式な文書においては「源朝臣栄一」と記されている。「源朝臣」はともかくとして、なぜかここでは「栄一」という通称を復活させている。
ところが、この「栄一」は、「エイイチ」ではなく「ヒデカズ」と読んだというのだから驚きだ。前出の『雨夜譚会談話筆記』によれば、渋沢本人が確かに「ヒデカズ」だったと証言していて、いつとはなしに音読の「エイイチ」が通称となったというのだ。
——渋沢栄一は、正しくは「シブサワ・ヒデカズ」だった!?、ということもさることながら、大物というのは、細かいことは気にしないのだ、ってことがよくわかるエピソードに違いない。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。