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松浦武四郎~「北海道」の名づけ親【にっぽん歴史夜話19】

文/砂原浩太朗(小説家)

松浦武四郎~「北海道」の名づけ親【にっぽん歴史夜話19】

松浦武四郎像

「知る人ぞ知る」という表現を時おり耳にする。一般的な知名度は高くないが、ほかに代えがたい存在感を放つ人や物にたいして用いられる形容である。探検家・松浦武四郎(まつうら・たけしろう。1818~88)などは、その典型だろう。20世紀中から彼の業績を取りあげる作家や研究者は少なくなかったが、広く知られていたとは言いがたい。ところが2019年が北海道の命名からちょうど150年だったこともあり、その名づけ親として近年にわかに注目があつまっている。松浦武四郎とは、いかなる人物だったのか。

16歳ではじめた大旅行

武四郎の生家は伊勢(三重県)の郷士で、名前のとおり四男坊の末っ子である。実家は伊勢神宮へつうじる街道に面しており、幼いころから数多の旅人を目にして育ったことと思われる。

旅行家としての人生がはじまったのは、16歳の天保4(1833)年。家出同然にして単身、江戸へくだった。家族と不仲だった気配もなく、前述のように旅の空気が身近ではあったろうが、そうした者がみな旅行家になるわけでもない。まさに天性のふるまいと言うべきだろう。江戸からはひと月ほどで連れ戻されたが、この間に篆刻(てんこく。印章彫り)の技術を身につけている。これが、のちのち旅先での収入源となった。

わずかな期間ではあったが、武四郎はすっかり旅に魅了されたらしい。両親を説得して、翌年、ふたたび故郷をあとにする。このとき一両の旅費を受けとったというから、送りだした側はせいぜい半年ほどのつもりだったろう。

ところが、武四郎は篆刻などでみずから生活の資を稼げるようになっている。この旅行は大坂を振りだしに四国、北陸、中部、江戸、九州……と10年にもおよんだ。その間に、ふた親とも亡くなってしまったというから、いささか唖然とするが、その生涯をつうじて、ふつうの価値観では測れない行動をとるのが、武四郎という男なのである。

運命の蝦夷地へ

10年ぶりに故郷へもどったのも束の間、武四郎は親類縁者へ別れを告げて、蝦夷地(えぞち。のちの北海道)へ向かった。長崎に滞在中、諸国の事情にくわしい町名主から話をきかされ興味をもったという。とはいえ、現代とは比べものにならぬほど困難のおおい旅路である。故郷を発ったのが天保15(1844。12月に弘化と改元)年2月、ようやく蝦夷地へ渡れたのは、翌年の4月だった。

当時、この地を支配していた松前藩は、御用商人と結託してアイヌ民族から搾取をかさねていた。むろん、その事実は秘されていたから、旅人など歓迎されるわけもない。武四郎は人別帳、つまりみずからの戸籍を松前藩領の江差へ移し、商人の手代となるなどして、やっとのことで蝦夷地へ足を踏み入れる。4年のあいだに3回の探検をおこない、知床や国後(くなしり)、択捉(えとろふ)、カラフト(サハリン)にまで足をのばした。

彼は紀行作家のはしりともいえ、35巻におよぶ「蝦夷日誌」で、この旅の詳細を書き残している。アイヌ民族にも深い共感を寄せ、日常会話には不自由しないほど言葉もマスターした。代表作のひとつ「近世蝦夷人物誌」では、さまざまなアイヌ人のエピソードを生き生きとつづり、彼らをしいたげる者たちの非道をうったえている。

やがて武四郎の存在は幕府の知るところとなり、ついに役人として取りたてられる。幕吏の身分で安政2(1855)年から3度にわたり蝦夷地の探検を実施、海岸線をほぼくまなく巡り、カラフトへも再度わたった。ちなみに、この地へ「樺太」という字をあてたのも武四郎である。蝦夷地の踏破は、つごう6回にもおよんだこととなる。

「北海道」ではなかった命名案

ところが、宮仕えは性に合わなかったとみえ、武四郎は4年ほどで官を辞してしまう。42歳で身をかためて娘もさずかり、在野の人として著述に専念、明治維新をむかえる。が、「蝦夷地のことなら松浦武四郎」という認識が行きわたっていたのだろう、新政府から開拓使の幹部に任じられた。ここで武四郎は蝦夷地にかわる新たな名称の考案を命じられる。彼が提出した案は、「北加伊道」だったが、これを「北海道」という表記にあらため採用されたのである(明治2=1869年)。「加伊」はアイヌ語であり、「この土地に生まれた者」という意味だった。武四郎がこめた思いの深さが推し測れるが、これを「海」に変更した政府との温度差は埋めようがない。けっきょく、かの地へ渡ることもなく2年ほどで辞職、「馬角斎」(馬鹿くさいの洒落)と号して、執筆や北海道の物産販売で生計をたてた。彼の著作には、しばしば自身による挿絵が付されているが、資料として正確でありながら、どこかユーモアを感じさせる魅力的な筆致である。それもあってか、「多気志楼(たけしろう)物」などと呼ばれて人気を博し、ずいぶんと生活の助けになったという。死の前年まで大台ヶ原(標高1695m。三重・奈良の県境)へ登山をつづけるなど、その後も生涯を旅に過ごし、明治21(1888)年、数え71歳で没した。

武四郎の生き方には、どこか突き抜けた明るさが感じられる。英雄ではなかろうが、「快男児」という呼び方がしっくりくる。そのせいなのか、彼の交友範囲はおどろくほどひろい。大塩平八郎、吉田松陰、大久保利通など幕末維新をかけぬけた巨星が目白押しで、水野忠邦や徳川斉昭(水戸藩主。15代将軍慶喜の父)の知遇も得ていた。これらの大物が一介の旅人である武四郎に魅せられていたと想像すれば胸が躍る。おそらく、それは彼がアイヌの人々へ向けた深いまなざしとも無縁ではないだろう。根からの自由人でありながら、他者への共感にもあふれる、それが松浦武四郎の魅力であったように思えるのだ。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

 

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