大獄からの復活~将軍後見職へ
将軍の後嗣が慶福に決するのと同じころ、大老・井伊直弼(1815~60)が勅許(天皇の許可)なしでアメリカとの条約に調印したことが問題となる。慶喜も井伊に面会をもとめ、直接その非を鳴らした。ただしこのとき、調印そのものは問題視せず、あくまで勅許を得なかった責のみ問うているところに、彼の政治観が垣間見える。しばしば尊皇攘夷とひとくくりに語られるが、ことはそう単純でない。父・斉昭はたしかに熱烈な尊皇家であり攘夷派だった。が、慶喜の場合、尊皇の精神が強かったのは間違いないものの、攘夷など不可能であることも分かっていたと思われる。
とはいえ、かねて慶福を推していた井伊にとって、斉昭・慶喜をはじめとする一橋派の諸侯が目ざわりだったことも明らか。定められた日以外に徒党を組んで登城したとして、蟄居や謹慎などの処分が次々とくだされる。のみならず、吉田松陰をはじめとする志士たちにも投獄・斬首などの刑が科された。名高い安政の大獄であり、慶喜も謹慎を余儀なくされている。
この大獄は、周知のように桜田門外の変(1860)で井伊が討たれたことにより、幕を閉じる。慶喜の謹慎は変の半年のちに解かれるが、これは直前に父・斉昭が没したことも影響している。斉昭に対する幕閣の忌避感はきわめて強かったのだ。
すでに家定も亡く、慶福あらため家茂の世となっていた。慶喜より9歳年下であり、いまだ10代の若者である。慶喜待望論はなおも根強く、斉彬亡きのち薩摩の実権をにぎった異母弟・島津久光が朝廷に圧力をかけ、慶喜を幕政に登用するよう勅使を江戸へ下向させる。
この結果、慶喜は将軍家茂の後見職に任じられた。1862(文久2)年、26歳のときである。幼時から英邁をうたわれつづけた人物が、ついに政治の表舞台へ姿をあらわした。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。
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