新着記事

膝や腰の痛み、原因は足の形かも 甲高や扁平だと、なぜひざや腰に負担がかかるのか?|「足の形」が原因の膝や腰の痛み メイドイン京都の小さなおりん|澄んだ音色が心地よい手のひらサイズのおりんセット 黒澤明『用心棒』 観るたびに面白く、見飽きない。どんなハリウッド映画も吹き飛ばすほどの痛快さ|黒澤明『用心棒』【面白すぎる日本映画 第28回】 日本リメイク版『24』ジャック・バウアー役を演じてほしい俳優ランキング|3位 は 岡田准一 、2位は ディーン・フジオカ 、1位は? 日本リメイク版『24』ジャック・バウアーを演じてほしい俳優ランキング|3位 は 岡田准一 、2位は ディーン・フジオカ 、1位は? 被災時に預貯金などを引き出すには【被災したときに役立つ生活再建のための知識】 被災時に預貯金などを引き出すには【被災したときに役立つ生活再建のための知識】 出雲黒柿の香筒|柿の古木が生む超希少な材を使った伝統の逸品 今もっともアツい動物行動学者、入交眞巳先生の新刊は愛猫家必読のバイブル【にゃんこサライ特別編】 レクサス車の顔として定着した、台形をふたつ合わせたようなスピンドルグリルが印象的。ヘッドライトは小型LED3眼を採用。 レクサスES|12年ぶりに国内販売を再開した上級4ドアセダンの革新性【石川真禧照の名車を利く】 【ビジネスの極意】なぜ、有望な新人を適材適所に配置できないのか? 【ビジネスの極意】なぜ、有望な新人を適材適所に配置できないのか? 鉄瓶 観月アラレ|まろやかな湯が沸く使い勝手のよいサイズの鉄瓶

サライ本誌最新号

住宅特集アンケート実施中です!

別冊付録「大人の逸品カタログ」商品はこちらから

ピックアップ記事

>>過去の記事へ

サライの通販

>>過去の記事へ

趣味・教養

「徳川四天王」家の幕末~そのとき、名将たちの子孫はどう動いたか【にっぽん歴史夜話13】

文/砂原浩太朗(小説家)

本多忠勝像

本多忠勝像

人呼んで「徳川四天王」――。家康が関ヶ原で勝利を手にする以前からしたがい、天下とりに貢献した譜代家臣の代表格である。名を挙げれば、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政と、この時代の歴史に興味ある方ならお馴染みの名将・猛将が目白押しだ。が、260年が経過した幕末、これら名将たちの子孫について、大老・井伊直弼(なおすけ)以外の事績はほとんど語られることがない。忠臣たちの末裔は、はたして「御家の大事」にどう向き合ったのか。

本多忠勝~三河岡崎藩の場合

家康には過ぎたる家臣とまで讃えられた本多忠勝(1548~1610)は、あまたいる戦国武将のなかでも特に人気のある人物だろう。13歳で初陣したのち、生涯五十余たびの合戦に参加し、一度も傷を負わなかったという剛の者である。といって力まかせの猪武者というわけではない。かの武田信玄を相手とする三方ヶ原の戦いでは負けいくさを経験したが、敵の法師武者を討ち、「信玄の首をとった」と触れて、意気消沈する味方を活気づけたという。

忠勝は関ヶ原後、伊勢桑名(三重県)10万石の大名となり、子の代に5万石加増されたが、その後、転封がつづく。なんと、江戸期をつうじて10回におよんだ。そのたび莫大な出費を強いられたうえ、宝永年間(18世紀はじめ)には嗣子なくして藩主が没する。本来なら取りつぶしとなるところ、家柄を考慮して存続を許されたものの、石高は5万石とされ、深刻な財政難に陥ってしまう。明和6(1769)年、三河国岡崎(愛知県)に移り領地替えは終わるが、その後も膨れ上がる借金とたびかさなる風水害に悩まされた。

幕末期の藩主・忠民(ただもと)は病がちの身をおして京都所司代や老中をつとめたが、幕府の勢威を盛り返すことはできなかった。鳥羽伏見の戦い(1868)で薩長が勝利したのち、病床にありながら時局を見据え、分裂した藩論を新政府支持に導いている。幕府の中枢に身を置いていた忠民には、徳川の限界が見えていたのかもしれない。

井伊直政~近江彦根藩の場合

四天王のなかで、本多忠勝とならぶ人気を誇るのが井伊直政(1561~1602)。近年はドラマなどの影響で、むしろこちらの方が知られているだろう。井伊家は他の三家とことなり、古くからの譜代というわけではない。もと遠江(静岡県)の土豪だったのが、直政の代から徳川家へ仕えるようになった。鎧や武具などを赤で統一した「赤備え」が有名で、この色から赤鬼と恐れられるほどの猛将だが、毛利家の知恵袋ともいうべき小早川隆景からは「天下の政治を動かせる器量」と評されている。一武将にとどまらない、うつわの大きな人物だったのだろう。石田三成の領地だった佐和山で18万石をたまわったが、関ヶ原で受けた傷がもとで早世した。彦根(滋賀県)に居城が移るのは、その死後である。

井伊家は一度も転封がなく、直政の子・直孝が2代秀忠以降の将軍に重用されて35万石の大家となった。家臣の最高位ともいうべき大老を5人(異説あり)輩出しており、まさに譜代筆頭といえる。
幕末の藩主として有名な直弼(1815~60)も大老として強大な権力をにぎった。が、天皇の許しを得ず外国と条約を結んだことや、安政の大獄で勤皇の志士を弾圧したことなどから反発を招き、桜田門外で暗殺される。

ここまではよく知られていることだが、その後、彦根藩は直弼の在職中に不都合ありとして、10万石を削られてしまう。尊皇派の追及をかわすためだろうが、藩主が亡き者にされたうえ、主家からこのような処遇を受けた井伊家の無念は、想像して余りある。慶応3(1867)年、王政復古の大号令が発せられると彦根藩は新政府方にくわわり、戊辰戦争(1868)にも出陣する。この選択もやむをえない、とむしろ同情をおぼえてしまうのは、筆者にかぎらないだろう。

榊原康政~越後高田藩の場合

榊原康政(1548~1606)は本多忠勝と同年の生まれである。名前の一字は主君・家康から拝領したもの。忠勝同様、生粋の武人というべきで、姉川、三方ヶ原、小牧長久手など、名だたる戦場で武功をあげた。人柄については、次のようなエピソードが残っている。家康の長男・信康ははげしい気性の持ち主だったが、あるとき康政の諫言に激怒して弓矢を向けた。が、当の康政は「ご存分になされませ」と言っていささかも動じず、信康もついに折れて、その言葉を聞きいれたという。

榊原家は館林(群馬県)で10万石を与えられたが、数回の転封と加増をかさね、姫路(兵庫県)15万石の領主となる。が、寛保元(1741)年、藩主・政岑(まさみね)が吉原での放蕩を幕府に咎められ隠居、越後高田(新潟県)に移されてしまう。実際は、8代将軍吉宗に抗して尾張藩主・徳川宗春とよしみを通じたためともいわれるが、いずれにせよ懲罰的な移封である。石高も表向き15万石だが、実収は6万石に満たなかった。

幕末の騒乱に際してはなかなか態度を鮮明にしなかったが、慶応4(1868。9月に明治と改元)年4月、幕府の脱走兵が領内に侵入したことから決断を迫られる。脱走兵を討ち、新政府に忠誠を誓うというのがその結論だった。以後、薩長とともに長岡や会津を攻撃、勝者の側に立って維新を迎えることとなる。佐幕派(幕府方)の多かった東北諸藩のなかではむしろ目をひく選択だが、あるいは130年まえの処遇が尾を引いていたのかもしれないと想像してしまう。

酒井忠次~出羽庄内藩の場合

酒井氏はもともと松平(徳川)氏と血縁関係にあり、忠次(1527~96)も家康の叔母を妻としている。四天王中ただ一人、主君家康より年長であり(15歳齢上)、少年期の家康にしたがって今川家で人質生活を送った。のち吉田(愛知県豊橋市)を居城とし、東三河の統率をまかされている。あらゆる点で四天王筆頭といっていいが、家康の長男・信康(榊原康政の項参照)が織田信長から謀叛の疑いをかけられた折、使者に立ったものの、はかばかしい抗弁ができずに信康は切腹することとなった。そのため、晩年は重用されなかったという。

が、孫の代には出羽庄内(山形県)14万石の大名となった。余談ながら、藤沢周平の作品に登場する「海坂(うなさか)藩」は、この庄内藩がモデルである。幕末には品川沖や蝦夷地警備などを相次いで仰せつかり、新徴組(幕府が組織した浪士集団)を託されて江戸市中の見廻りにもあたった。藩内の抗争に佐幕派が勝利し、戊辰戦争では会津藩とならんで幕府方の中心となる。庄内藩自体は領内へ敵兵の侵入を許さなかったといわれるほどの善戦ぶりだったが、他の東北諸藩が次々と敗れたため、ついに降伏。酒井家はいったん領土を没収されるが、ほどなく故地へ復帰する。この陰には、西郷隆盛のはからいがあったとされるが、あるいは庄内藩の奮戦に心を打たれたのかもしれない。庄内の人びともこれに恩を感じ、ながく西郷を慕ったという。

徳川四天王の跡をたどって感じるのは、時の移ろいというものである。すでに大名個人が藩の命運を左右できる時代ではなくなっていた。いずれの家も、身分の高下を問わぬ議論や抗争の結果、進む道を選んだ。260年もの時間が経てば、主家との関係もおのずから一様ではなくなっている。現代の視点から、その選択にとやかく言うべきではないだろう。が、新政府についた家中からも、少なからぬ数の士卒が脱藩して徳川方に身を投じている。そこにどこか、うつくしいものを見いだしてしまうのも、また事実である。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で

関連記事

  1. 関ケ原 立花宗茂~関ヶ原の敗北から返り咲いた唯一無二の武人【にっぽん歴史…
  2. 西郷隆盛とその一族~弟たち、子どもたち~ 西郷隆盛とその一族~弟たち、子どもたち~【にっぽん歴史夜話11】…
  3. 西郷隆盛と3人の妻たち 西郷隆盛と3人の妻たち【にっぽん歴史夜話10】
  4. 「龍馬のサブ」ではなかった中岡慎太郎【にっぽん歴史夜話 9】
  5. 牧野伸顕――大久保利通と吉田茂をつなぐ、忘れられた大政治家【にっ…
PAGE TOP