織田信長と公武結合政権
一方の「徳川(将軍)史観」とは、織田信長、豊臣秀吉が亡びた後、徳川家康が将軍(征夷大将軍)となって恒久的な武家政権「江戸幕府」を設立したという「ゴール」から歴史を振り返り、戦国大名や信長、秀吉らは、みな将軍となって武家政権を開きたいと思っていたとする考え方だ。
こうしたある種の「思い込み」によって、信長は将軍の座を目指し、それを正親町天皇が阻止しようとしてという「図式」が描かれた。信長が天下の名香とされる蘭奢待(らんじゃたい)を切り取ったり、京都で大規模な馬揃えという軍事パレードを行なったりしたことも、この図式に則すれば、信長が天皇を追い込んでゆくデモンストレーションという解釈になる。
しかし、堀さんは、先入観なしに同時代の史料を読むと、当時の信長と朝廷が「不和」だった事実は読み取れず、むしろ協調関係にあったと主張する。信長は正親町天皇に譲位を迫ったという説があるが、堀さんによれば、むしろ譲位を望んでいたのは正親町天皇だという。
天皇の「譲位」というと、皇位を奪われるという印象を持つ人も多いと思うが、中世においては、天皇が皇位を若い(幼い)後継者に譲り、治天(の君)という天皇家の事実上の家長の座に就くというのが「常識」だった。
皇位にあるうちは、お灸をすえるといった病気の治療は「天皇の尊い体(玉体)を傷つける」として忌避され、同じ理由で外出もままならなかった。皇位を退いて上皇となっても、天皇家の家長であることには変わりがないなら、さっさと上皇(あるいは出家して法皇)になって、自由に病気の治療をしたり、気ままに寺社見物でもすることを多くの天皇は望んでいたのだ。
馬揃えについても、天皇や公家たちは観覧を希望し、この一大イベントを楽しんでいたという。蘭奢待も、正親町天皇は信長から切り取った断片の「おすそ分け」をもらい、それを側近に下賜したりしているくらいで、信長に追いつめられていたとは思えない。
ただ、皇位を継承するためには大嘗祭や即位礼などのさまざまな儀礼が必要となる。戦国時代の朝廷には、ありていに言えばその金がなく、さっさと譲位することなどできなかった。信長は、いわば朝廷のパトロンのような立場で金を出し、その望みをかなえてあげようとしたのだ。
堀さんは、武家社会にあっても、朝廷と武家(信長)政権は協調していたとみる。朝廷が伝統的な権威を信長に与え、信長は金と武力で朝廷をバックアップする。いわば相互補完的に並び立ち、国家を形作っていたと結論づけ、その国家に「公武結合王権」という呼び名をつけている。
もちろんこれは学説であるので、反対の立場の研究者もいるだろう。
しかし、天皇・朝廷と信長が実は協調関係にあったという視点には、ぜひ注意を向けていただきたい。「麒麟がくる」では今後、両者の関係はどのように描かれるのだろう。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。