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『麒麟がくる』では博打好きの名医として描かれる望月東庵を堺正章さんが好演。

「麒麟がくる」で堺正章さん演じる京都の医師・望月東庵先生には、モデルにしたと思われる実在の医師が存在する。曲直瀬道三。朝廷や諸大名などの権力者の診察をした戦国の名医について、かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

正親町天皇も診察した名医がいた

『麒麟がくる』には、物語の重要なカギとなる架空の人物が二人、登場する。少女時代、光秀に思いを寄せていた庶民の女性駒(演・門脇麦)と、駒が身を寄せる京の町医者望月東庵(演・堺正章)だ。

この望月東庵先生、なぜか織田信秀(演・高橋克典)や今川義元(演・片岡愛之助)と付き合いがあったり、正親町天皇(演・坂東玉三郎)の囲碁の相手をしたりする、正体不明の医師でもある。

正親町天皇と囲碁を打ったかどうかはさておき、この時代の医師が朝廷や幕府のトップとも付き合いのある特殊な存在であったことは事実だ。

では、当時の医師とはどのような存在だったのか。

室町末期から安土桃山時代に活躍した名医に、曲直瀬道三(まなせどうさん)という人物がいる。元は堀部と名乗る京の町衆の出身だと思われるが、のちに臨済宗の僧となり関東の足利学校に学んだといわれている。

そこで道三は明に留学した田代三喜という医師と出会い、医学を学ぶようになる。三喜は、宋から明にいたる中国の医書を学習し、中国医学を日本に根づかせた人物として知られている。

医学を学んだ道三は京都に帰り、啓迪院(けいてきいん)と名付けた医学校を創立。多くの弟子に医学教育を施した。ところがこの道三、学問・教育ばかりではなく処世術にもたけていたようで、足利義輝・松永久秀・毛利元就・織田信長・豊臣秀吉などの、ときの権力者の「お脈拝見(診察)」をし、信任を得ることに成功する。

もちろん、彼らやその家族の診察で高額の謝礼を得たものと思われる。

さらに道三は、千利休など他分野の文化人と親交を結び、医療にとどまらない広範な文化活動を通じ、政治にも関与したといわれている。

ちなみに、東庵先生ならぬ「道三先生」は、正親町天皇とも関係が深かった。永禄3年(1560)に初めて宮中に参内し、正親町天皇の脈をとっている。道三は天正2年(1574)にも拝謁を許され、診察をしたうえで著書『啓迪集』を献上した。

正親町天皇は策彦周良(さくげんしゅうりょう)という僧に命じてこの本の序文を書かせるという特別な計らいをし、さらに道三に翠竹院(すいちくいん)という号を授ける大サービスをしている。よほど「お気に入り」の名医だったのだろう。

もちろん、道三と囲碁を打ったかどうかは定かではないが(まあ、たぶんやらんでしょう)。

東庵先生の碁仲間は、なんと正親町天皇(演・坂東玉三郎)!

養子・玄朔も名医として活躍

曲直瀬家の医学とは、どのようなものだったのか。実例にあたってみよう。

天正11年(1583)正月、65歳となった正親町天皇が突如、脳卒中で倒れ、周囲を心配させた。当時、天皇には何人もの侍医いたが、その一人が曲直瀬道三の養子(孫娘の夫)である曲直瀬玄朔(まなせげんさく/当時35歳)だった。

玄朔の著書『医学天正記』によれば、このとき玄朔は竹田定加(じょうか)、半井瑞策(なからいずいさく)という二人の他の侍医と、病気の診察や薬の処方をめぐって競争をさせられたが、結果として玄朔の治療が功を奏して天皇は恢復したという。

竹田、半井の両医師は、玄朔の先輩にあたる医師で、天皇や秀吉を何度も診察したことがあるベテランだった。その二人と、いわば腕比べをして勝利を収めたわけで、この「勝利」により、玄朔は医師としての名声を勝ち得たのだ。当時、玄朔は医師として2番目の位である「法眼」であったが、これがきっかけで、のちに最高位の「法印」の位を手に入れている。

道三は文禄3年(1594)に88歳の生涯を閉じるが、すでに法印となっていた後継者の玄朔がその医学を引きついでいた。玄朔は、師であり養父でもある道三と同じく、秀吉や毛利輝元などの病気治療に手腕を発揮したが、ある事件がきっかけで一時、失脚を余儀なくされた。

道三の死の翌年、秀吉の養子となっていた関白秀次は、秀吉の怒りをかい切腹させられる。秀次の侍医であった玄朔はそのブレーンとみなされ、秀吉によって常陸(茨城県)の大名佐竹義宣に預けられるという事態となった。天国から地獄への転落だ。

しかし玄朔の医学の技術は他に替えようのない優れたものだった。慶長2年から3年の間に、玄朔は豊臣秀頼の侍医として復権を果たしている。「掌中の珠」であるわが子に最高の治療を受けさせたいという、秀吉の切ない親心が玄朔の復権を許したのだろう。

なお、玄朔の伝記などでは、慶長3年(1598)に後陽成天皇が眩暈で倒れて人事不省となったとき、玄朔は朝廷の勅旨をもって罪を許され、秘方の薬を次々と繰り出して後陽成を全快させたとされてきたが、これは伝記作者の潤色、つまりフィクションだと思われる。

慶長13年(1608)、玄朔は江戸幕府の招きに応じて2代将軍徳川秀忠の診察と治療にあたり、江戸にも屋敷を与えられた。腕の良い医者は誰もが放っておかず、特に権力者と金持ちから引っ張りだこになるのは、今も昔も同じこと。

玄朔は朝廷と幕府両方の典医となり、寛永8年(1631)に83歳で没するまで、京と江戸を往復する日々を送ったという。

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

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