室町幕府がいつ滅亡したか、に話を戻す。

天正4年2月、まだ征夷大将軍職にあった足利義昭は、毛利領の鞆の浦に居を定め、数カ所に御所を構えた。これを「鞆幕府」と呼ぶ。

鞆の浦には山中鹿介の首塚がある。将軍義昭が首実験に立ち会ったという。

明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥抗争』(小学館)の著者である藤田達生さん(三重大学教授)によると、御所の周辺には近臣・大名衆・奉公衆・奉行衆などの武家家臣に加え、同朋衆・猿楽衆といった芸能集団、侍医・御厩方とった関係者を含め、50人以上の随行者がいて、その家族や家臣なども含めると数百人以上の関係者が生活していたと推定している。

義昭は、毛利輝元を副将軍に据えたうえで、栄典や諸免許などを授与することで、毛利氏の重臣上級幕臣に相当する御供衆や大外様衆に加え、幕府機構に組み込んでいった。

かつて義昭の兄で13代将軍の足利義輝は、越後の長尾景虎(上杉謙信)に守護の証として毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)と白傘袋(しろかさぶくろ)の使用を許可したことで知られているが、義昭は鞆の浦近隣の領主層に許している。また義昭は、鞆の浦にあっても京の寺院支配に関与し、とくに幕府管轄下にある寺院にはそのトップである住持を任命する辞令を発行し、見返りに援助を得ていた。

つまり、現役の将軍である足利義昭が率いる鞆幕府は、規模は縮小したものの、政治権力である幕府としては存続し続け、決して「名目」だけの存在ではなかったというのだ。

義昭を追放して政権力の主体となった信長は、安土城を本拠とする武家政権、すなわち「安土幕府」を開いたと考える藤田さんは、天正元年の義昭追放から天正10年の本能寺の変までの約9年間は、事実上「鞆幕府」と「安土幕府」が併存し、対抗しあった時代であると結論づけている。

確かに、一向一揆や大坂本願寺との戦い、長篠の戦い、松永久秀・荒木村重の謀反など、天正年間に起きた信長の戦いは、すべて鞆幕府=足利義昭、あるいは信長包囲網と信長の代理戦争と解釈することができる。

室町幕府が、京の「室町に御所を構える幕府」という意味ならば、確かに義昭が京を追放された段階で、滅亡したと見てもよいだろう。しかし、足利氏の正当な当主が征夷大将軍として開く政治機構と考えるならば、幕府は「鞆幕府」として存続し続け、信長と10年近く戦い続けたことになる。そして、本能寺の変にも、明智光秀という存在を通じて関与したのだ。

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

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