松永久秀に次いで荒木村重も信長に反旗を翻す
村重の反乱も、久秀の動きときわめて似ている。
村重は、もともと摂津国人池田勝正の重臣だった。一代で頭角を現し、池田姓を与えられ一族衆の待遇を得るまでになった。元亀四年(1572)三月、村重は信長方を表明して、武田信玄上洛によって窮地に陥っていた信長を救った。京都東山で村重に対面した信長は、「摂津一職」を恩賞として与えた。
村重は、伊丹に有岡城(兵庫県伊丹市)を築いて本城とし、子息の村次には尼崎城(兵庫県尼崎市)を、一族の元清に花隈城(神戸市)を預けた。順調に摂津に支配体制を敷いていった村重であるが、羽柴秀吉から理不尽な扱いを受けることになる。
天正五年、秀吉は信長から毛利氏攻めを命じられ、播磨に出陣した。その後、村重の与力小寺氏の家臣黒田氏を重用し、姫路城を拠点としてゆく。また、大坂本願寺の調略についても、佐久間信盛が担当してゆく。信長の秀吉や信盛という尾張衆に対する重用を、村重は理不尽な仕打ちと感じざるをえなかった。
このような村重の窮状を見抜いたように接近する人物があった。それが、足利義昭側近の小林家孝だった。天正六年十月、家孝は毛利氏家臣末国元光とともに摂津に向かい、村重の説得に成功した。この説得交渉には、義昭の奉公衆で出雲の国人だった古志重信も動員されており、複数のルートで試みられたことが判明している。
それを受けて、同月十七日付で本願寺の顕如が村重・村次父子に対して、知行を保障するなどの旨を記した起請文を作成した(「京都大学所蔵文書」)。その後、村重とその重臣たちは本願寺に味方し、あわせて毛利氏に人質を提出してゆく。
ここまで、松永久秀と荒木村重の信長からの離反についてみてきた。明らかに、信長の人事の失敗といえよう。登用した現地の実力者に対する扱いは決して公平とはいえず、きわめて雑なのである。信長は、なぜ彼らが裏切ったのかわからなかった、というのも救いがたいところである。
久秀や村重からすれば、いくら信長に奉公したところで一門や近習せいぜい尾張出身の譜代家臣までしか信用していないのではないか、との疑念をもたざるをえないのだ。彼らは、信長から面子を潰され裏切られたと感じ、深く傷ついたのである。
そこを、義昭や毛利方が見事に衝いてきたといえよう。信長包囲網とは、信長に属した畿内近国の大名・国人に対して、義昭や毛利氏方が説得し味方につけることで力を発揮したのであった。