文/藤田達生(三重大学教授)
明智光秀による主君織田信長と嫡男信忠の討滅事件、すなわち本能寺の変は完璧だった。天正10年(1582)6月2日未明、歴史的なクーデターは見事に成功した。
攻撃対象の居所を正確に把握し、しかも一撃のもとに葬り去ったばかりか、その後継者まで討ち取ったのである。戦国合戦において、ここまでピンポイントの襲撃が成功した他の事例としては、永禄3年(1560)5月19日の桶狭間の戦いぐらいしかないのではなかろうか。
光秀決起の背景には、斎藤利三ら重臣層の意志ばかりか、光秀に接近した将軍足利義昭とその人脈が関与したことについては、拙著『明智光秀伝―本能寺の変に至る派閥力学』で詳述した。さらに、近衛前久をはじめとする光秀と入魂な朝廷人脈の関与の可能性は濃厚である。これに関連して、信長の上洛問題について検討したい。
事実上の天下統一の完成を飾る西国出陣を6月4日に予定していた信長が、超多忙だったにもかかわらず、あえて5月29日に少数の供回りを従えて入京したのはなぜなのか? 光秀は、信長の上洛情報をいかにして入手したのだろうか。この不自然な行動が、信長にとって人生最大の不覚だった。
自らの行動にはきわめて慎重な信長ではあったが、宿所本能寺には森成利(蘭丸)ら、ごく少数の近習しか控えておらず、他の家臣は周辺で分宿していたとみられる(「本城惣右衛門覚書」)。毛利氏や長宗我部氏の敗退を確実視した気の緩みというほかないが、ここまで襲撃するのにおあつらえ向きの状況はなかった。
●「三職推任」問題と仕組まれた信長入京
信長が上洛した理由は、間違いなく朝廷との交渉の結果である。約1か月前の5月4日には、勅使勧修寺晴豊(近衛前久家令)が安土に派遣されて朝廷の意志を伝達している。『晴豊記』天正10年4月25日条には、朝儀の実権を握っていた誠仁親王側と京都奉行村井貞勝との事前交渉がおこなわれた旨が記されている。
【交渉を進めてきた誠仁親王グループ。次ページに続きます】