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金ヶ崎の退き口では、先遣隊として熊川に入り、殿として朝倉軍の追撃に応じて信長(演・染谷将太)を逃した光秀(演・長谷川博己)。

『麒麟がくる』第31話で描かれた「金ヶ崎の退き口」。妹婿浅井長政(演・金井浩人)の離反で窮地に陥った織田信長(演・染谷将太)は、越前から若狭街道を通って京に敗走した。その若狭街道の宿場町熊川(福井県若狭町)には、ドラマでは描かれなかったが、朝倉攻めに際して、先遣隊として訪れた明智光秀の知られざるエピソードが眠っていた。若狭町の歴史文化課の学芸員岡本潔和さんがリポートする。

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日本海、琵琶湖、京都をつなぐ要衝

熊川宿から琵琶湖までの航空写真。

若狭小浜から近江朽木を通り、京都へつながる若狭街道は、古くから日本海側の産物を京へ運ぶ重要なルートとして発展してきました。江戸時代には、特に多くの魚介類が運ばれ、その代表が鯖であったことから、鯖街道と呼ばれるようになりました。

その若狭街道の最大の宿場町である熊川宿は、秀吉の時代に浅野長政が若狭の領主となったときに諸役免除の布告を出したことで人口が増え、宿場町として成立しました。江戸時代になると小浜藩は町奉行所、藩の米蔵、番所などを置き、物資の荷継ぎを行う問屋が発達しました。現在の熊川宿は、国の重要伝統的建造物群保存地区として、毎年建物の修理が行われ、歴史の町並みを今に伝えています。

戦国時代には、町の中ほどに位置する現在の白石神社の背後の山に熊川城が築かれ、室町幕府の奉公衆である沼田氏がこの地を支配していたことがわかっています。町には沼田氏の屋敷があり、小さいながらも城下町であったことが推定されます。

さて、若狭は東西に長く、北は日本海で南は近江の国境となる山々が連なります。若狭と近江を往来する道はいくつかありましたが、険しい山道が多く、その中でも比較的通りやすかったのが熊川を通る若狭街道でした。よってこの道は、物資の運搬、人の行き来だけでなく、軍事的にも極めて重要な道であったと考えられます。

また若狭から京都、さらには大坂へ向かう道中に琵琶湖の水運があったことも見逃すことはできません。この水運は流通、軍事両面で極めて重要な役割を果たしたことは明らかで、古くから熊川は日本海と琵琶湖、そして畿内中心部をつなぐ要衝の地として認識されていたと言えるでしょう。

信長が京に敗走した若狭街道の熊川。江戸時代には街道最大の宿場町となった。

熊川城主沼田氏と光秀

熊川に城を構えた沼田氏は、もとは関東上野国の出身であると言われています。観応2年(1351)、足利尊氏から熊川の地を含む若狭瓜生庄下司職に補任され、以後代々幕府御領所代官として存続したものと推定されます。幕府奉公衆として、若狭、さらに丹後、越前の動向を把握する役割も担っていたと考えられます。

しかし、守護武田氏の勢力が衰退すると、熊川の隣、瓜生に城を築いていた武田氏の家臣松宮氏は、所領拡大を進めます。永禄12年(1569)、沼田氏は松宮玄蕃に攻められ、熊川城を明け渡し、近江へ逃れたといわれています。

沼田氏の熊川城の本城は、町の南側の山に位置し、主郭は海抜185mの場所に三段で構成され、この場所からは近江方面が見えます。さらにそれに続き北東側にむけて7段の中段郭が形成され、その先端に5条の畝堀があります。両側もかなりの急斜面になっており、堅固なつくりであると言えるでしょう。

さらにその先には、白石神社、沼田氏の菩提寺と考えらえる得法寺があります。出城としては、小浜方面を監視する熊川の西端に張り出す海抜215mの山頂に位置するものと敦賀・越前方面を監視するためにつくられた北川右岸の新道集落の裏山に位置するものの二カ所が確認されています。各方面に睨みを利かせた要衝にふさわしいつくりと言えるでしょう。現在、城址(本城)への登山ルートが整備されており、白石神社から10分程度で主郭へ到達することができるようになっています。

城主沼田光兼は、細川藤孝の後見人を務めていた縁で、永禄5年頃(1562)足利義晴の命で娘麝香(じゃこう)を藤孝に嫁がせています。後に二人の長男である忠興に明智光秀の娘玉(ガラシャ)が嫁ぎ、明智家とのつながりをもっています。

沼田光兼の子である沼田清延が、今注目を浴びている「針薬方」に登場します。この史料は細川家の家臣米田家に伝わった医薬書です。その中に「セヰソ散」という薬の調合を記した部分があり、ここには「明智十兵衛尉(光秀)が、近江国高嶋郡の田中城に籠城した時、共に籠城していた沼田勘解由左衛門(清延)が、光秀から聞き取った内容を、米田貞能が沼田より聞き、書き留めたもの」とあります。これが書かれたのが永禄9年(1566)であり、この頃、すでに光秀と沼田清延は出会っていたことがわかります。

つまり、同じ足利将軍の家臣であった沼田氏と細川氏が姻戚関係を結び、つながりを深めていく中で、明智光秀が、沼田氏を介して幕府関係の人脈を広げようとしていたのではないでしょうか。沼田清延は、後に光秀とその盟友となる藤孝をつなぐキーマンの役割を果たしたと言えるでしょう。

【金ヶ崎の退き口~光秀が熊川で書いた書状~次ページに続きます】

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