金ヶ崎の退き口~光秀が熊川で書いた書状~
明智光秀が若狭熊川を訪れたのは、永禄13年(1570)4月20日のことでした。同じ日、織田信長は徳川家康とともに木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らを従えて、越前朝倉氏を討つため京を出発しています。光秀はその先遣隊として若狭熊川に入りました。これは、光秀が若狭、越前方面の情勢に明るいという理由であったと考えられます。
この時の史料が熊本の細川家の家臣の三宅家に残されていました。光秀が熊川に到着したことを細川藤孝らに報告した書状です。この書状には、武田氏の家臣が熊川まで信長を迎えに出てきていることや、越前への通路や近江北部に異変がないことなどが書かれています。
信長はその2日後の22日に熊川に到着し、すでに熊川を支配していた松宮玄蕃の屋敷に宿泊したといわれています。その後、佐柿の国吉城で軍議を行ない、越前敦賀に向かいました。信長軍は手筒山城を皮切りに金ヶ崎城などを攻略して大きな成果をあげましたが、突然、近江の浅井長政の謀反の知らせが届きます。
そこで信長は朝倉と浅井の挟み撃ちの危険が迫る中、撤退の決断をし、熊川から近江の朽木を抜けて命からがら京都へ逃げ帰ったのです。その時、藤吉郎と光秀らが殿(しんがり)となって、迫る朝倉・浅井軍を防いだといわれています。
この戦いは後に「金ヶ崎の退き口」といわれ、信長の必死の退却戦として語り継がれています。光秀にとっては、新たな信長の家臣として頭角を現す絶好の機会となったと言われています。
しかし、この撤退戦において、光秀はかなり追い詰められていたのではないでしょうか。先述の細川藤孝宛書状には「越州口(敦賀)ならびに北郡(近江北部)いずれも別条をもっての子細これなく候」と記しているのです。これは、この時点で光秀が浅井長政の裏切りを予見できなかったことを示しています。
信長に期待されて従軍したこの戦いにおいて、結果として光秀は先遣隊の役割が果たせなかったことになります。この時点では、浅井長政の意思はまだ固まっていなかったのかもしれませんが、光秀の心中を察すれば、自分自身に責任を感じ、何としてでもこの撤退戦を成功させなければならないという思いで殿の役割を務めたと考えられるのです。
この書状は、光秀にとって、意気揚々と熊川に入り、戦場の表舞台に登場したことを示す史料であると同時に、後の世に残したくない、封印してしまいたいものであったのかもしれません。この書状(複製品)は、若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館で展示されています。
明智光秀が本格的に歴史の表舞台に登場した若狭熊川での出来事。熊川宿の町並みを歩きながら、その時の光秀の複雑な心境に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
文/岡本潔和(若狭町歴史文化課課長補佐/学芸員)