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朝倉攻めでは先遣隊として行動していた光秀(演・長谷川博己)。
織田軍は国吉城で軍議を重ねて対朝倉戦に臨んだ。

史上名高い「金ヶ崎の退き口」が描かれた『麒麟がくる』第31話。冒頭に登場した国吉城(福井県三方郡)は、朝倉攻めにあたって、信長軍が軍議を開いた城として知られ、「続日本100名城」にも選定された名城でもある。城の麓にある若狭国吉城歴史資料館の大野康弘館長が、通説とは異なる地域に伝承された「金ヶ崎の退き口」の真実をリポートする。

* * *

福井県三方郡美浜町に所在する国吉城は、標高197.3mの通称「城山」に立地する山城で、弘治2年(1556)、若狭国守護大名武田家重臣の粟屋越中守勝久によって築かれた。眼下に若狭国を横断する丹後街道を臨み、若狭国と越前国の国境を睨む「境目の城」であった。

永禄6年(1563)9月、若越国境を越えた越前朝倉氏が侵攻してきたが、激しい籠城戦の末に撃退した。しかし、朝倉勢は諦めずに翌年もその翌年も侵攻を繰り返すが、悉く打ち破った。

永禄11年(1568)、朝倉勢は国吉城下を素通りして小浜に軍を進め、若狭国守護武田元明を一乗谷に連れ帰ってしまう。若狭国は一時足利将軍家の保護下に置かれた。天正元年(1573)8月に織田信長によって朝倉氏が滅亡を遂げるまでの約10年におよんだ。朝倉勢を相手に繰り広げられた壮絶な“国吉籠城戦”は、『国吉籠城記』によって後世に広まり、「難攻不落」の堅城として名を残した。

永禄13年(1570)4月20日、足利将軍家の上洛命令に従わない若狭国大飯郡石山城主の武藤氏を討伐すると称して、織田信長率いる約3万の軍勢は京を出陣した。付き従うは柴田勝家、丹羽長秀、木下藤吉郎(豊臣秀吉)ら織田軍と、三河国の徳川家康、摂津国守護の池田勝正らで構成された足利将軍家の軍=幕府軍であり、2日後の4月22日には近江国から若狭国熊川に進んだ。

その先触れと情報収取のため、明智光秀が4月20日に入っており(「永禄十三年卯月廿日付明智光秀書状」三宅家文書)、2年前に当主が朝倉氏に拉致された若狭武田家臣団(若狭衆)が光秀を出迎えた。

元号が「元亀」と改まる4月23日、熊川を発した軍勢は、武藤氏の居城である大飯郡石山城を目指すには西に進むところ、突如丹後街道を北上し始め、国吉城に入った。この折、城主の粟屋勝久は家臣に城内を祓い清めるよう命じ、自身は倉見峠まで信長を出迎えた(『国吉籠城記』)。

信長の記録としても著名な『信長公記』にも、「二十三日佐柿、翌日御逗留」とある。信長と諸将は、国吉城に3日間滞在して、越前朝倉氏攻めの軍議を重ねた。今年(令和2/2020)は信長が入城してちょうど450年目に当たる。

25日、若狭衆を加えた軍勢は若越国境を越え、敦賀に乱入して天筒山城を攻めた。1日で天筒山城は落城し、翌日には金ヶ崎城が降伏開城した。軍勢は、木の芽峠を越えて一乗谷を目指そうとした矢先、北近江の浅井長政が背後を襲う動きを見せたため、軍勢は撤退を余儀なくされた。信長は近臣のみで若狭国を駆け抜け、近江国朽木谷を経て30日に帰京した。

朝倉勢は深追いしなかった

登城道から連郭曲輪群を見下ろす。

残された軍勢は、『太閤記』の影響を多大に受けた通説によれば、木下藤吉郎秀吉が殿軍を担い、激しい後退戦を繰り広げ、多数の死傷者や逃亡者を出しながら何とか逃げ切り、秀吉の大手柄となった……とされるが、実態はそうでもない。秀吉以外に身分の高い池田勝正勢や、幕府奉公衆の立場の光秀も撤退戦に参戦したと伝わる(「一色藤長書状」『武家雲箋』)。

身分の低い秀吉が撤退の最後尾にいたのは、織田家の中の序列に過ぎない。秀吉が殿軍の大将というわけではないのである。また、撤退して目指すは信長が逃げ帰った京の都……でもない。最終的にはそうであるが、まずはこの越前攻めの本陣、国吉城が健在であるのだから、本陣に撤退するのが常道であろう。

若狭衆が帯同しているので、地理不案内ということもない。追撃の朝倉勢は未だ木ノ芽峠を越えていないし、浅井勢も姿を見せない。金ヶ崎から若越国境まではわずか10数kmなので、若狭国、つまりは国吉城へ向けての撤退は、割とスムーズに行われたのではないだろうか。

国吉城の地元美浜町には、通説とは異なる“金ヶ崎の退き口”の伝承がかつてあった。町村合併により美浜町が出来る前、若越国境に接する旧山東村では、教科書でこの伝承を地域の歴史として教えていた。つまり、国吉城に近い黒浜(現・美浜町佐田海岸付近)で朝倉軍の追撃を受けた木下藤吉郎の軍は、一時敦賀半島の北、丹生村に逃げ込んだ。再び丹後街道に出た直後、朝倉の追撃軍に囲まれ、いよいよ全滅寸前の矢先、徳川勢が現れて救ったという(『東遷基業』)。その後、徳川家康は松原、久々子付近に陣を敷き、その跡地には昭和まで碑が立っていた。

また、若越国境を越えた最初の若狭国側の集落である佐田地区にも、かつて集落のあちこちに丸い石を供えた塚があり、「朝倉の墓」と伝承されていたという。国吉籠城戦で死んだ朝倉勢を葬った墓なのか、撤退戦で死んだ織田勢を葬った墓なのかはわからないが、いずれにしろ、国吉城と若越国境の間の話で、国吉城より西ではこのような伝承は皆無である。

よく似た伝承は、敦賀市疋田付近にもある。天正元年の小谷城後詰からの撤退で、織田勢の追撃を受けた朝倉勢が刀祢坂から道々討たれ、遺骸を村人が葬ったという墓や塚が一帯に点在していた……というもので、現在もいくつか残されている。

これらが何を意味するのか?……撤退する軍勢の後衛、つまり殿軍は、池田勢、徳川勢と織田勢最後尾の木下勢(+光秀)。若越国境を越えた辺りで殿軍の中でも少数の木下勢が朝倉の追撃軍に捕まり、窮地を徳川勢に救われて国吉城に逃げ込む。朝倉勢の追撃は国吉城の近くまでで深追いはせず、国吉城から若狭国を抜けて京の都へは、若狭衆の先導で整然と撤退した……というのが“金ヶ崎の退き口”の実態と思われる。

地域に伝わる、通説とは異なる伝承こそが、実態に最も近いのではないだろうか。

なお、侵攻の発端となった武藤氏に対しては、5月6日に丹羽長秀、明智光秀らが石山城に至り、人質を取り、城館を破却した。

【 織田勢の越前侵攻の本陣となった国吉城 。次ページに続きます】

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