足利義昭(演・滝藤賢一)を奉じて上洛を果たした織田信長(演・染谷将太)。義昭のために二条城を造営するなど、室町幕府の再興に尽力するが、幕府の要職には決して就こうとしなかった。それはなぜか?かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
* * *
信長と義昭は「相互補完関係」?
室町幕府最後の将軍足利義昭と、義昭を将軍の座につけた織田信長との関係を理解するのは、なかなか難しい。
かつては、信長が最終的には義昭と対立して京都から追放したという「結果」から二人の関係をさかのぼり、もともと信長は「天下人」になる野望があり、義昭は傀儡に過ぎなかった。だから自分の意に従わなくなると、さっさと追放してしまったのだ——という印象が流布してきた。
しかし、近年の信長研究の深化によって、少なくとも義昭を推戴して上洛を果たし、将軍の座につけた段階では、信長はまだ室町幕府の再興を目指していて、義昭との関係も良好であったという認識が広がっている。
戦国時代の足利将軍の研究をリードしてきた小山高専非常勤講師の山田康弘さんは、信長と義昭の関係を「互いに補完し合っていた」と表現している。義昭は信長の強大な軍事力を頼り、これを背景に将軍職についた。一方、信長は自らの軍事行動が義昭の上意を受けた戦いだと宣言することで、戦いの正当性を確保し、さらに諸大名などとの外交交渉(和睦交渉など)を行なう際の「きっかけ」に、義昭を利用していた。つまり、この二人は互いを利用し合う関係だったということになる。
いずれにせよ、ともに上洛を果たした段階では、信長と義昭の関係は極めて良好であったことは間違いない。尾張・美濃の大名に過ぎない信長が、上洛を果たす大義名分は、あくまでも室町幕府の再興であり、信長は義昭を将軍の座につけることで幕府の権威を高め、自らのその後ろ盾として支えるという意識だったのだろう。
信長はなぜ管領・副将軍就任を拒んだのか?
ところがここで一つ疑問が浮かぶ。義昭は将軍になると、信長の功績を賞して「管領」や「副将軍」に就任するよう要請している。管領は将軍家重臣の筆頭に位置する地位で、幕政を統括する役職とされている。細川・畠山・斯波の三家からしか選任されないならわしとなっていた。織田家は、尾張守護・斯波家の家臣筋なのだから、異例も異例。義昭からすれば「大サービス」ということになろう。
しかし信長は、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜りながらも、この要請をきっぱりと断ってしまった。
室町時代後期の政治史を専門とする、大正大学准教授の木下昌規さんによれば、信長の登場以前の将軍を支えてきた三好氏や細川氏といった有力大名は、「御供衆」「御相伴衆」といった称号をもらい受けていたので、信長が義昭を支える立場でありながら将軍家の役職や称号を帯びない状態になったのは、かなり「異様」であったという。
室町幕府体制の再興を願うならば、管領や副将軍はベストポジションと言えるだろう。なぜ断ったのか。
研究者によっては、信長は義昭を将軍に据えたとはいえ、完全のその配下となり、室町幕府という旧来の政治機構に取り込まれてしまうことを忌避したのではないかと主張する方もいる。あくまでも信長は、自律性を確保し、将軍権力と並び立つような立場に立ちたかったのではないか。いわば「両頭政治」を目指していたのではないか。そう主張する人もいる。
確かに、その後の信長が義昭と対立し、追放するに至る歴史を考え合わせると、説得力のある説明にも思える。しかしそうなると、結局、信長は室町幕府を支えるつもりだったのか、自ら天下人になるつもりだったのか、皆目わからなくなってしまう。
振り出しに戻ってしまったかのようだ。
【信長は京都に縛られることを拒んだ。次ページに続きます】