ひとり暮らしになってから、禅寺の朝食を基本に1~2品プラス。クリエイターの創作の源は、白粥と具沢山の味噌汁だ。
【谷内田孝さんの定番・朝めし自慢】
コンピュータ万能の現代にあって、和紙に毛筆で描かれた建築図面がある。
「こんなアナログ人間は、世界でも私ひとりでしょう」
と笑うのは、グラフィックデザインやスペースデザインを手がけてきた谷内田孝(やちだ たかし)さん。すべて独学だ。昭和56年、37歳で「谷内田デザインスタジオ」設立。63歳で閉鎖するまで300件近いプロジェクトに関わった。この間、図面はすべて毛筆や赤鉛筆で描いたという。
昭和19年、北海道・函館生まれ。自分の未来は東京にあると、16歳で上京。その頃の青年の夢は映画監督であった。黒澤明監督の『七人の侍』が、その原点である。監督への道を模索しながら、「東映動画スタジオ」や「東宝映画円谷プロダクション」で働き始める。
その頃に出会ったのが、その後の人生設計に何かと影響を与えてくれた北嶋キミ江さんである。
「私が上野の東京国立博物館の前庭に佇んでいた時、声をかけてくれたのが北嶋キミ江先生でした。私の母より4歳ほど年上で、日本伝統の染織作家。千葉県市川市の先生のご自宅に通って、多くのことを学びました」
21歳で印刷会社に転職。製版、印刷などを学び、デザイン部ではグラフィックデザインの勉強をする。26歳でグラフィックデザイナーとして独立。前述したように37歳でデザインスタジオを設立するが、63歳で閉じて自由人となった。
『分とく山』からのプレゼント
「禅との出会いで、今の私の朝食が完成しました」
というように、岐阜県美濃加茂市の禅寺、正眼寺に定期的に通うようになり、朝食は白粥になった。
「奥さんが元気な頃はご飯に味噌汁、焼き魚といった朝食でしたが、4年前に亡くなってからは禅寺の朝食が基本です。残り物のご飯を集めて白粥を炊き、家ではそれに1~2品、酢の物や浸しなどを加えます。味噌汁も一菜となるように具沢山にするのが谷内田流です」
ひとり暮らしの谷内田さんにとって心強いのが、日本料理店『分(わけ)とく山』の野﨑洋光さんだ。40年来の親友で、月に2~3回は特製の惣菜やお握りなどを届けてくれるという。それもこれも積み重ねた“徳”の賜物であろう。
絵を描くこと、書を書くことが生きる糧である
平成5年、人生の師であった北嶋キミ江さんが亡くなった。享年89。逝去のまさにその時、谷内田さんは京都・三十三間堂の仏像に見入っていたときに知る。
「その日からライフワークだった三十三間堂千三十一体なる全仏像を描き上げ、先生に捧げようと決心。14年かかりましたが、それが『三十三間堂への道』です」
翌18年には、「三十三間堂の墨彩仏画展」を開催。これをきっかけに臨済宗妙心寺派正眼寺の住職、山川宗玄師と出会う。会社を閉めた半年後のことで、人生の転機となった年でもある。
正眼寺僧堂に通う日々が始まり未来道場体験セミナーなどをプロデュース。また、2年前からは正眼短期大学に一学生として入学、新たなる学びが始まっている。
「自由人になってからずっと絵は描き続けていましたが、正眼寺に通うようになって書も書くようになりました。絵や書を書くことが生きる糧で、生きる糧をもっていることで毎日が楽しいのです」
画号は“ 魚心”。水のことで命の源という意味。北嶋キミ江さんがつけてくれたという。
※この記事は『サライ』本誌2022年5月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。 ( 取材・文/出井邦子 撮影/馬場 隆 )