取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
手許に『料理の科学』という新書がある。洗浄、切断、加熱、調味、保存などの料理のメカニズムを科学者の目で解き明かした一冊だ。著者である名古屋工業大学名誉教授の齋藤勝裕さんが語る。
「料理は素材を切ったり砕いたり、加熱したりして、美味しく変質させる技術。これは化学実験と同じです。例えば、煮るや焼くは熱化学反応であり、膾(なます)やピクルスは酸・塩基の反応、また発酵は生化学反応、干物は光化学反応です」
ガスの炎であぶるとカラッと焼きあがらない理由や、調味料を加える時の「サシスセソ」、つまり砂糖、塩、酢、醤油(せうゆ)、味噌の順序の根拠など、興味深い話題が満載だ。しかも、それらが化学式をほとんど使わずに、平易に解説されている。
新潟県新発田市生まれ。科学のおもしろさを教えてくれた高校の担任教諭の影響で、東北大学理学部に進み、同大学院理学研究科を卒業。専門は有機物理化学である。
「今、話題の有機ELや有機太陽電池などの研究に携わってきました。こういうとむずかしそうですが、化粧品から洗剤、酒、グルメまでこの世の森羅万象はすべて化学。私はそのおもしろさを伝える伝道師でありたいと願っています」
その言葉どおり、この15年間で著書は165冊にも及ぶ。
郷土の醤油を常備
自他共に認める“食いしん坊”。かつては自ら包丁を握ったこともあるが、今、朝食に登場するのは同郷の夫人の手になる郷土料理。主菜は“鮭の焼き浸し”が定番だ。
「これは鮭の切り身を焼いて、酒と味醂、醤油を合わせた漬け汁に浸したもの。保存食で、子供の頃からよく食べた懐かしい味です」
その醤油は新潟県笹神地域(現・阿賀野市)に嘉永元年(1848)から伝わる老舗『コトヨ醤油醸造元』の「喜昜(きあげ)」を常備。爽やかな程よい甘みが特徴だ。
漬物は新潟県小千谷市の『山崎醸造』の「こうじ床」に、ひと晩漬けたもの。野菜が麹の香りをまとい、サラダ感覚で食べられる。これら新潟の味に、デザートはブルーベリー。公私共に酷使する眼を労るためのブルーベリーである。
科学の冷徹さを趣味で補い、心のバランスを保つ
趣味人である。手作りのステンドグラスや彩木画で、自宅はさながらギャラリーの趣だ。ステンドグラスや彩木画に出会ったのは、化学研究のためにアメリカ留学した35年ほど前。招かれた友人宅でたびたび目にし、惹かれたという。
何事もとことん追求する性分。2年後に帰国し、師について学ぶ。ステンドグラスには教会などで見るケイム式とティファニーランプに代表されるティファニー方式があるが、齋藤さんが手がけるのは後者のほうだ。小さいガラスにも対応できるからだという。
一方、“彩木画”なる言葉は、齋藤さんの造語。日本では“木画”や“象嵌”、また“木象嵌”と呼ばれ、突板(つきいた、ウッド・ペーパー)で描く絵のことである。
「有機化学などの研究は神様の思し召し。1年かけた実験がすべて無に帰すことも珍しくない。それが科学者の宿命。対してステンドグラスや彩木画は、一日一日の作業が積み上がっていく。私にとって日々結果の出る趣味が、心のバランスを保ってくれるのです」
科学者の冷徹さと、趣味人の遊び心が同居する。
取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
※この記事は『サライ』本誌2018年1月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。