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ワイン

【日本ワイン生産者の肖像3】ブルース・ガットラヴさん(10Rワイナリー)|北海道・空知でつむぐ理想のワイン造り

取材・文/鳥海美奈子

ブルース・ガットラヴ、亮子夫妻。ふたりはともに力を合わせて、自らのワインを造り、そして他の生産者の醸造をサポートする。

日本ワイン“中興の祖”。ブルース・ガットラヴさんには、そんな形容がふさわしい。

現在の日本ワインの隆盛を担う北海道の生産者の多くは、ブルースさんから何かしらワイン造りの示唆を受けた。ドメーヌ・タカヒコの曽我貴彦さん、KONDOヴィンヤードの近藤良介さん、ナカザワヴィンヤードの中澤一行、由紀子夫妻など、そこには日本ワインのトップ生産者の名が、きら星の如く並ぶ。

ブルースさんは、現在は北海道・岩見沢に移住し、奥様の亮子さんとともに「10Rワイナリー」を運営する。カスタムクラッシュワイナリーは、日本ではまだ馴染みが薄い。自分の畑や北海道の契約農家のぶどうから造ったワインは「上幌ワイン」の名でリリースするが、それ以外に醸造所を持たないぶどう栽培農家に、醸造の場を提供している。

2017年春、ワイナリーを訪れると、そこでは15生産者ものワインが醸造されていた。10Rのある空知地方に限らず、余市や帯広、洞爺湖など北海道のさまざまな地域からぶどうが運ばれる。

樽ごとに違う生産者のワインが醸造、熟成されている。カスタムクラッシュワイナリーならではの面白さだ。

「ここは、まだ醸造の経験がないぶどう栽培農家を受け入れる場です。“こういう醸造をすれば、こういうワインの味わいになる”と説明はします。でも、どの方法を選ぶかは個人の自由です。“どうしたらいい?”と聞かれても、“さぁ。自分で考えてください”としか言いません。

私のワイン造りを真似る必要はない。本当の意味で醸造がわかるまでには10年かかると思います。でもなにより大事なのは、自分なりのワイン哲学を持つこと。いずれ独立してワイナリーを立ち上げるか、委託醸造を続けるかは、それぞれ考えればいい。できれば、ここから巣立って欲しいですけれどね」

上幌ワインと10Rのロゴは、奈良在住の篆刻家に依頼した。

「10R」には、さまざまな人がワインを造る場という意味が込められている。当初は人物を特定しない「あるワイナリー」という名前にしようかと考えたが、妻の亮子さんの「それではつまらない」との意見により、「10R」になった。数字とアルファベット表記は、「とある」という意味を隠すための当て字である。

「カスタムクラッシュは、ワイン産地としての北海道の潜在能力を最大限に引き出すことが目標です。北海道のぶどうのポテンシャルの高さを、多くの人に知ってもらいたい」

醸造の専門家として、多くの日本生産者に影響を与えてきたブルースさん。

ブルースさんは1961年、アメリカニューヨーク州ロングアイランド生まれ。ニューヨーク州立大学で食物生理学について学んだ秀才である。専門は食物生理学のなかの微生物学だが、「良い生徒ではなかった」。ノーベル賞受賞歴を誇る教授もいるほどのアカデミックな環境下で医学、社会学、ロシア語、美術、食物生理学など専門を6回も変えた。そのころ同時に、ワイン入門コースを受講したのを機にワインへの興味を高めていく。

研究者か、大学教授か。多くの学友はどちらかを選択した。しかし、その道に魅力を感じなかった。ブルースさんが大学で専攻したほとんどの分野が、じつはワインと関連していると気づく。さまざまな分野を内包したワインという世界が面白いと、やがて酒屋やワインバーでソムリエとして働き始める。ニューヨークは昔も今も、ワインにおける世界のトップ市場である。現在は東京もそのひとつだが、当時はロンドンとニューヨークのみだった。そのためフランスなどあらゆる国や地域のワイン生産者が、プロモーションでニューヨークを訪れた。そのたびにセミナーやテイスティング、ガラディナーに参加し、ワインへの理解を深めていった。

ワインの醸造を本格的に学ぼうと1982年、カリフォルニア大学デイヴィス校大学院の醸造学科へ。アメリカの醸造学で最も権威のある学校である。

アメリカは禁酒法により、20世紀前半に酒類の製造が途絶えた時期があった。世界的に評価されるカリフォルニアワインを生み出した第一人者ロバート・モンダヴィが登場するのは、それから約半世紀を経た1960年代後半のことである。

ブルースさんがワインの世界に足を踏み入れた80年代のカリフォルニアワインは、「ケミカル(化学)というよりはサイエンス(科学)の時代」。農業もアグリビジネスの考え方が主流であり、一定量のぶどうを毎年育て、安定した収益を上げるのが理想とされていた。そんな潮流のなか卒業後はワインコンサルタント会社に入り、ナパを中心に10数軒のワイナリーを担当する。

「私がソムリエ時代に飲んで感動したフランスワインは、ぶどうの良さをそのまま生かした、伝統的なワイン造りでした。でもカリフォルニアはテクニック重視だった。気候が暑く糖度の高いぶどうができるので、水分を取り除く浸透圧こそ必要ないけれど、遠心分離器や培養酵母、清澄や濾過、酸化防止剤SO2などを多用していた。サイエンスを使うと、そこそこ良いワインは造れます。でもそれはあくまで平均点で、心を震わすような最高のワインはできないとやがて感じるようになりました」

その頃、訪日の機会を得る。契機となったのは栃木県にあるココ・ファーム・ワイナリーだった。ココ・ファームは当時、自社畑が少なく山梨からぶどうを買っていたが、それでも不十分と、海外のぶどう原料輸入のためカリフォルニアを訪れていた。ココ・ファームからぶどうの購入を依頼された栽培農家が、ブルースさんの大学院時代の同級生だった。「日本でワインを造るなんて面白そうだから、ぶどうを売ったよ」と、友人は話していた。

その縁で、ココ・ファームの母体である「こころみ学園」の園長・川田昇さんから、自分たちのワインの感想を聞かせてほしい」と依頼される。「悪くないけれど、もっといいワインができる。酸化的なニュアンスがあるから、それをなくさなければいけない」と答えた。すると「ワイン造りの技術を持っている人を迎え入れたい。ワインを一緒に仕込んでくれないか」と打診される。ぶどうの収穫期から醸造が落ち着くまでの3か月間、指導して欲しいという。

当時、勤務していたコンサルタント会社の社長に相談すると、「長期なので一度、休業して行くように」と言われた。そんな経緯によりブルースさんは1989年、初来日を果たす。

「まずは、ワイン造りの基礎を徹底する必要がありました」。ぶどうは完熟させてから摘み取ること。腐敗したり傷がついたぶどうを取り除く選果を丁寧にすること。もし良質なぶどうが収穫できたら別のキュヴェ(銘柄)にして仕込むこと。カーヴ内が汚く雑菌が繁殖していると、それによりワインも腐敗するリスクがあるのでカーヴ内を清潔に保つこと。健全なぶどうであれば清澄剤や補糖、SO2も最低限で構わないこと。

「西洋の食文化ではワインは辛口で、食事とともに愉しみます。でも当時の日本はワインといえば甘口が主流で、リキュールかと感じるほどだった。たとえば甲州も、すごく補糖していました。甲州は軽やかさが持ち味だから補糖をしないか、最低限にしたほうがいいと思った」

ブルースさんが醸造に関わった初年度、ワインは一気に辛口になった。しかし翌年、そのワインを発売すると、消費者からクレームが来た。

「ココ・ファームの人たちは、“外国人のブルース先生が来たから、言うとおりにしよう”という感じで従ってくれました。でも顧客たちは、“酸っぱくてまずいから、あの外人は帰ったほうがいい”と。それまで、みんなワインを養命酒のような感覚で飲んでいたんですね。日本の消費文化を知らなかったので、もう大失敗でした」

ココ・ファームは、知的障害を持つこころみ学園の生徒に労働の場を与えるという役割も持つ。ぶどう栽培という自然のなかでの労働を通して、自然を生かす術を学び、自らも心身の健康を保ち、自立を目指す。ぶどうの植樹、剪定後の枝拾い、堆肥の散布、ぶどうの収穫などもすべて生徒たちが行う。園長の川田さんは「障害を持った人たちであっても、本物のワイン造りを目指さなければならない」という信念の持ち主であり、その思想のもとブルースさんを迎え入れた。それは同時に、当時の日本においては最先端のワイン造りでもあった。

「生徒のみなさんも一生懸命ぶどう栽培をやっているのに、この状態ではココ・ファームの役に立てたとはいえない。そう思い、もう一度行きたいとコンサルタント会社に頼んだんです。答えは、“それならもう戻ってこなくていい”でした」

まもなくブルースさんは、日本への移住を決意する。その理由は、果たしてどこにあったのか。

「外国人として日本に住むのはプラス面もマイナス面もあります。でも移住を決めたのは、やはり日本が好きだったから。人々が親切で、治安もよく、そして国家も平和で成熟している。アメリカは歴史が浅いぶんダイナミズムがあって、いつも前を向いています。でもそれだけに未熟な部分もある。たとえばココ・ファームのゲストルームでよくワインを飲んだ時、園長の川田さんの話に誰もが耳を傾けていた。それは感動的な光景でした。アメリカ人は、むしろ自分がどう思うかを主張するほうが大事だから」

もうひとつ心惹かれたのは、こころみ学園の姿勢だった。ブルースさんの父は衛星カメラ製造に関わるエンジニア、母は小学校の先生で敬虔なクリスチャンだった。

「両親には、人と人が助け合うのは当然であり、大切なことだという教育を受けました。それもあって、ワイン造りと福祉という関係性が面白いと感じたんです。好きなワイン造りをしながら、知的障害を持つ生徒たちと働くことが、とても興味深かった。私は、彼らとすごく仲良くなったんですよ。日本語がわからないから、言葉を使わない人たちとむしろ良いコミュニケーションが取れたんです」

日本に移住後、ブルースさんのワイン造りは進化を遂げていく。91年には甲州で人工酵母を使わず、野生酵母のみの発酵に挑戦。さらには、無濾過や亜硫酸を使用しない醸造法も取り入れていった。当時の日本では、まだ野生酵母のみでワインを造る生産者は皆無だった。「国税局が来て、“ワインは食品です。食中毒が出ると困るから野生酵母はやめるように”と注意されました。“ワインは8000年前から野生酵母で造られてきたから大丈夫ですよ”と答えましたよ」と言い、笑った。

90年代の日本は、レストランのソムリエも酒屋もまだフランスワイン一辺倒だった。ココ・ファームの品質が向上しようとも、周囲からの反応はまったくなかった。「すごくがっかりしました。でも注目されないということは、逆に自由にできるということでもある」。

それでも、少しずつ風は吹き始めていた。ココ・ファームの名は、やがて世に広まっていく。その決定的な出来事は2000年、九州・沖縄サミットの晩餐会にココ・ファームのワインが採用されたことだった。

しかしその頃になると、ブルースさんの心のなかには葛藤が生じ始める。醸造はテクニックに頼らない、本来のぶどうの良さを生かす方法へとシフトしていた。しかしココ・ファームのある栃木県・足利市は雨が多く、ぶどう栽培においてはまだ多くの化学合成農薬を使用していた。

その一方で組織を考えれば、ビオ栽培の移行の難しさも理解していた。ビオ栽培に転換すると、年によっては収量が減ったり、ぶどうが全滅することもある。ココ・ファームは福祉の役割も持つゆえ、ある年のワインがゼロというリスクは負えない。化学合成農薬の不使用を主張するのは、無責任にも感じられた。加えて、ブルースさんはココ・ファームの取締役という立場にもあった。「当時は、取締役としてのブルースと、個人のブルースが闘った時代だった。それで、本当に自分がやりたいことをやるなら、独立するしかないと思い始めるようになったんです」。

ブルースさんは、妻の亮子さんに「そろそろ離れる時期に来ているかもしれない」と相談した。亮子さんとは友人の披露宴で出逢い、4~5年交際したのちに結婚していた。亮子さんは、「ブルースは悩みが多すぎる。家に帰っても仕事のことばかりよね。自分のやりたいことを、やったほうがいい」と、支持してくれた。

*  *  *

2003年頃から、土地を探し始めた。カリフォルニア、フランス、イタリアも訪れた。当初はフランスとイタリアが有力な候補だったが、言語の問題もあり躊躇していた。ココ・ファームで北海道のぶどうを購入し、ワイン造りをするなかで、これほど質のいいぶどうが採れるなら自分の理想のワイン造りができるかもしれないと、やがて思い始めるようになる。

2006年、ブルースさんは他の日本ワインの生産者たちとともに渡仏した。シャンパーニュやロワールなどフランス各地のワイン生産者を訪ねるなかで、ヴァン・ナチュールが大きな潮流になりつつあると、肌で感じた。自らもそういうワインが魅力的に思えた。やはり自分の新しいプロジェクトを始めようと、改めて決意。ココ・ファーム側と話し合いの場を持つと、「取締役の立場はそのままで、技術指導は継続して欲しい」と依頼され、円満に独立への道が拓けた。ちなみに現在はココ・ファームも、化学合成農薬をなるべく使わないぶどう栽培へとシフトしている。

念願を叶えて、北海道・空知地方の岩見沢へと移り住んだのは2009年のこと。

「空知は自分の育ったニューヨーク州ロングアイランドに似ている。じゃがいも畑があって、野生の雉や鹿が棲息して、すごくのどかです。この地域はぶどう栽培農家も、低農薬の人が多い。だから農薬の量を減らしてぶどう栽培をしても、周囲の農家から”虫や病気が出るからやめてくれ”と言われないのも理想的でした。私は人との争いが苦手だし、自分の望むことをマイペースでやりたいから」

北海道の多くのワイン産地のなかでも、内陸にある空知はより厳寒で、春と秋は長く、夏は短い。昼夜の寒暖差も激しい。それだけに、ワインには酸とミネラルがくっきりと刻印され、ストラクチャー(味の構成)のしっかりした味わいに仕上がる。

10Rのカーヴのすぐ横に、そのぶどう畑は広がっている。土壌は風化した砕けやすい粘土質であり、水はけがいい。2.3ヘクタールの畑のうち、現在は1.4ヘクタールにぶどうが植樹されている。赤ワイン用の1ヘクタールの区画は南向き斜面で風が強く吹きつけることから、「風」という銘柄名にした。そのうち95%がピノ・ノワールで、それ以外にピノ・ムニエ、プールサール、ガメイが混植される。これまではぶどうの粒を茎から外し、粒だけで発酵する除梗という方法を用いていたが、2015年の収穫は房ごと仕込む全房発酵にも挑戦した。全房1樽、除梗2樽である。除梗は果実味がありチャーミング、全房は色が淡く繊細な味わいに仕上がるので瓶詰め前にその3樽をブレンドし、最終的にピノ・グリも混ぜた。

醸造所のすぐ横にある畑。主幹が細く、まだ樹齢が若い。樹齢が上がるとともに、ワインも変化を遂げていくに違いない。

一方、白ワイン用の畑0.4ヘクタールは後ろに大きな森があるので「森」と命名されている。ソーヴィニヨン・ブラン、そこにピノ・グリ、オーセロワ、アリゴテ、シュナン・ブラン、サバニャン、グリューナ・フェルトリーナなどが少しずつ植わっている。ぶどうの収穫は限界まで待つ遅摘み。例年、収穫は10月の後半であり、「2016年のソーヴィニヨン・ブランは雪が降ってから収穫した」という。白用のぶどうは房ごと搾り、タンクに入れて常温で1日置き、沈殿させる。その上澄みだけを別の容器に移し、りんご酸が乳酸に変わるマロラクティック発酵が終わったら味わいを確認、一体感が出てきたところで澱引きし、すべてのタンクのワインをブレンドして瓶詰めする。そのワインにはとろりとした粘性があり、夏みかんなどの柑橘、白胡椒やトリュフの芳香が漂う。いわゆるソーヴィニヨン・ブランの概念を覆す味わいだ。

いわゆるソーヴィニヨン・ブランの概念を覆す「森」。遅摘みにより酒質はとろりとして、黄金色に。

「醸造家としては透明人間になりたい。人ではなく、畑の要素が感じられるワインを造りたいんです。よく“美味しいとはどういうことか”と考えるんですよ。”美味しくない”とは”口に合わない”ということではないかと最近、思うようになった。私が求めるのはピュア、のどごし、旨み。今までワインにとって欠陥といわれてきた酢酸やブレッド香も少しあってもいいと思います。従来のワインとは違う価値観で、私なりの美味しさを追い求めていきたい」

北海道・岩見沢は4月でも寒風が吹く。そのなか、亮子さんは畑仕事に励んでいた。

現在、畑仕事は妻の亮子さんが中心に行う。北海道に移住するまでワイン造りの経験は皆無だった。しかし、「知識や常識がないことが、良い方向に働くこともあると思います。ぶどう栽培は、子育てと似ている。なにより観察が大事で、その時々の状況によって対処していきます」と、亮子さんは語る。ぶどう栽培は重労働だ。酷寒の北海道で畑に立ち続ける亮子さんの顔は、大地とともに生きる人間ならではの清々しさに満ちていた。

10Rの設立から、まもなく10年。「ワイナリーが、空知地方の環境に馴染み、景色のひとつとなってくれれば」と、ふたりは未来をそう語る。

最後にブルースさんに、日本ワインへの自らの影響力について聞いてみた。彼からワイン造りを学んだ生産者たちを「ブルース・チルドレン」と、そう呼ぶ声もある。

「日本のワイン業界の役に立てるのはとてもうれしいし、光栄なことです。でも、”ブルース・チルドレン”と呼ばれる側の人たちは、その表現をどう思うでしょうか。親というのは子供から多くのものを得ますよね。私には今、15歳の娘がいますが、彼女からたくさんのものを受け取っている。私も曽我さんや近藤さん、中沢さんから多くのことを得させてもらった。どちらが上か下か、ということではないんですよ」

その人生観の基底となるのは、クリスチャン的な思想である。

「私は日本のワイン界、ひいては日本の農業を元気づけたいと思ってきました。ココ・ファームにいた時代は、買い付けのために全国のぶどう栽培農家を回っていた。そのたびに、日本は農業に関わる人が減り続けていると感じたんです。ワイン用の質の高いぶどうを造れば、農家は自分の作物を安く売ったりと、苦しむこともなくなる。微力ですが、そういう農家を増やしていければ、と。私は父母に、“人間同士は助け合うのが基本”、そして“周囲のためになにができるかを考えなさい”と教えられてきました。それをワインという仕事を通して実現できることが、最大の幸福に感じられるんです」

取材時、ブルースさんと亮子さんが造る「上幌ワイン」の「森」と「風」が出荷の時を迎えていた。生産量が少ないため貴重で、なかなか入手できない。

取材・文/鳥海美奈子
2004年からフランス・ブルゴーニュ地方やパリに滞在して、文化や風土、生産者の人物像などとからめたワイン記事を執筆。著書に『フランス郷土料理の発想と組み立て』。また現在は日本の伝統文化、食や旅記事を『サライ』他で執筆している。

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