取材・文/鳥海美奈子

日本ワインにおける、ピノ・ノワールの可能性を切り拓いた人物。ドメーヌ・タカヒコの曽我貴彦さんは、その意味で日本ワインのエポック的存在として、長く語り継がれることになるだろう。

*  *  *

赤ワインの王者といわれるピノ・ノワール。稠密で精緻、そして格調に満ちたその味わいは、飲む人の心を揺さぶる力を持つ。

しかし同時に、ピノ・ノワールは気難しいことでも知られる。冷涼な気候を好むため、世界中のどこでも栽培できるわけではない。かつては、原産地であるフランス・ブルゴーニュ以外では栽培できない、といわれた時代すらあった。ブルゴーニュの人々はこのぶどう品種を「優雅だけれど扱いにくいプリマドンナ」に喩えるほどだ。日本という地においてどのようなピノ・ノワールのワインを造るのか。それが、日本ワイン生産者にとっては長いあいだ命題といえた。

曽我貴彦さんは、そのピノ・ノワールに人生を賭した。

「ピノ・ノワールは生涯、興味の尽きない品種です。でも決して簡単ではないし、僕自身も器用ではない。そう考えて、ピノ・ノワールだけを栽培しようと決めたんです」

ワインを語るとき、テロワールという言葉がよく使われる。テロワールとは、フランス語の土を意味する terre から派生した語だ。そこには畑の土壌、日照、気温、降雨量、水はけ、風通し、海抜、さらにはその風土と向き合う生産者の哲学までもがすべて内包されている。

ワインは、そのテロワールにより味わいが異なる。だから、たとえ同じピノ・ノワールといえどもじつに多様だ。ブルゴーニュはエレガント、ニュージーランドは端正、カリフォルニアは濃厚でパワフル、チリやアルゼンチンは凝縮感がある、といったように。

優れた生産者はテロワールの真率な声を聞き、それをワインのなかに描き出そうとする。では、日本という地においてどのようなピノ・ノワールを表現するのか。自らのドメーヌを立ち上げて以来、それを曽我さんは自身に問い続けてきた。

■北海道・余市で挑むピノ・ノワール栽培

北海道余市町登地区。標高60mの南東向きの丘に広がる4.6ヘクタール(作付面積2.5ヘクタール)の畑を、曽我さんは自らと、研修生のふたりだけですべて面倒を見る。

その丘からは、遥か日本海を望むことができる。

今年の12月下旬で45歳になる曽我貴彦さん。ワインは1年に一度しか造れない。赤のピノ・ノワールの銘柄「ナナ・ツ・モリ ピノ・ノワール」を初リリースして以来、さまざまに試行錯誤も重ねた。その結果、今、自分のワインのスタイルを確立しつつある。

余市は、海の影響を受けるため北海道のなかでも比較的温暖であり、降水量も少ない。また春から秋は内陸の羊蹄山から南西の風が吹くので、ぶどうに病害が出づらい、恵まれた気候条件だ。

その証拠に、余市は果樹栽培の地として、明治時代から知られてきた。曽我さんが高齢で畑を手放したいという農家から土地を購入したときも、そこにはさくらんぼや林檎、プルーンなど7種の果樹が植えられていた。「ナナ・ツ・モリ」という彼のワインの銘柄名には、その地の歴史を語り継ぎたいとの想いが込められている。

曽我さんがこの北海道・余市という地で、ピノ・ノワールのみを育てようと決心するまでには、多くの紆余曲折があった。自分のドメーヌを設立すると決めた8年ほど前から、畑をどこにするかを模索し始めた。自らの出生地である長野、山形や福島などの東北、さらには同じ北海道のなかでも岩見沢など、候補地はじつに50以上にのぼった。

「独立する前、僕は栃木県のココ・ファームというワイナリーでぶどうの栽培担当をしていたんです。当時、カルフォルニアに農場を所有していたことから、海外の輸入ぶどうも使っていましたが、すべて国産ぶどうに変えようという転換期で日本各地のぶどう畑を回った。北海道は本州のように高温多湿だったり、梅雨があったりというリスクはない。その反面、気候が涼しいので酸が立って、ぶどうが熟さないというイメージが長年あった。でもそのとき、改めて北海道のぶどうと接してみると、酸と熟度をともなった、質のいいぶどうができることがわかったんです。それ以来、北海道は自分にとって非常に可能性がある地だという印象へと変わっていった」

ぶどう品種も、はじめからピノ・ノワールに限定していたわけではない。決定打となったのは、やはり北海道で栽培された良質なピノ・ノワールに出逢ったことだった。そのひとつが、余市の良質なぶどう栽培家としてワイン業界では有名な農家・木村忠さんのピノ・ノワールだった。

「僕もはじめは、日本でピノ・ノワールの栽培は難しいと考えていました。目指すぶどう品種はピノ・ノワールのような優しい味わいであれば、どんな品種でもいいと。でもこれだけ良質なピノ・ノワールが余市で造れるなら、自分が憧れていたピノ・ノワールに挑戦できると思えた。やがて栽培や醸造に関する様々なアイデアが生まれて、これこそが自分のやりたいことだ、と感じたんです」

やはり余市で高品質のワイン用ぶどうを育てることで有名な中井農園で1年間の研修を経て、2010年、曽我さんは余市に畑を購入した。

ビオロジックで栽培される畑。ぶどうの木の列と列の感覚は2.5m。仕立てはブルゴーニュと同じギュイヨという方法。

そのぶどうは、ビオロジックで栽培される。化学合成農薬や化学肥料は、いっさい使用しない。火山性の一種である安山岩や火砕岩、そのうえに風化した礫や砂、粘土などが混ざりあった、水はけの良い土壌だ。

ドメーヌ・タカヒコの土壌。上の1/3が重粘土。50~60cm下には肥えた黒土があり、そこに土石流などが混じる。

自らの畑の土を手に取る。風化した礫や砂、粘土などが混ざりあうため水はけもいい。

弱酸性で微生物も活発に活動できる火山性土壌。繊細かつ旨みのあるワインのもとになる。

世界ではピノ・ノワールに向くのは、石灰岩土壌といわれる。ブルゴーニュがピノ・ノワールの産地として名高いのは、この石灰岩土壌に由来する。エレガントなブルゴーニュの味わいの源となるのは、この石灰岩がもたらすミネラル分なのだ。

日本の多くの生産者は、石灰岩土壌がない日本では、ピノ・ノワールは難しいと考えてきた。加えて高温多湿で雨の多い日本の気候だと、ただでさえ栽培の難しいピノ・ノワールはより病気に罹りやすい。

しかし曽我さんは、思考し続けた。それは果たして本当なのか、と。ワインがテロワールを映すものであるならば、日本の土壌で、日本の気候で、日本人ならではの哲学や味わいを表現することが可能なのではないか、と。

それは日本人として、ワインを造るひとりの職業人として、アイデンティティを確立する作業だったと言っていい。

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