歴史作家・安部龍太郎氏による『サライ』本誌の好評連載「謎解き歴史紀行~半島をゆく」。「サライ.jp」では本誌と連動した歴史解説編を、歴史学者・藤田達生先生(三重大学教授)がお届けしています。今回は丹後半島編の3回目、共に丹後に拠りつつ本能寺変後に明暗が分かれた細川・一色両氏と、後にガラシャとなる細川忠興夫人・玉子の運命に迫ります。
「丹後半島編」の旅の初日、京都丹後鉄道・天橋立駅から籠神社への移動の車中で、丹波守護、一色氏の最後の居城となった弓木城(与謝野町)の位置を、籠神社禰宜の海部殻成さんお聞きした。残念ながら、時間の都合もあって立ち寄ることはかなわなかったが、車窓からは町役場近くにある城山を確認することができた。
天正8年(1580)8月、織田信長の命を受けた細川藤孝・忠興父子は丹後に入国し、八幡山城(宮津市)に入り、宮津湾に面した新城の築城を開始する。これが、宮津城である。丹後府中と宮津のほぼ中間地点に位置する弓木城には、一色義定(義有)がおり、細川氏とは対等の関係にあった。
細川氏は丹後国内の与謝・加佐の二郡を、一色氏は中・竹野・熊野の三郡を支配し、隣国丹波を領有した明智光秀が彼らを統率した。光秀は、両氏の緊張関係を和らげようと、藤孝の息女伊也を一色藤定に嫁がせている。
信長の指示によって宮津築城は急ピッチで進められるが、光秀も援助したようである。光秀の織田家中内の立場に加えて、藤孝との年来の交友関係、さらには忠興が息女玉子(後のガラシャ 1563~1600)の婿だったことにもよるであろう。
現在、宮津城跡は市街地化が進み、わずかに本丸北部石垣の一部が残存するほか遺構は消滅している。ただし、太鼓門が整備されて宮津小学校正門に、本丸玄関が愛宕神社本殿(与謝野町)に移築され、現存するのはありがたい。近年、大手川沿いに城壁が一部復元され、かつての宮津城を偲ぶことができるようになった。
細川父子と玉子が、新城に入ったのは天正9年3月のことだった。翌天正10年6月2日に本能寺の変がおこるが、細川・一色両氏の対応はまったく異なったといわれる。
一色氏は光秀に従い、細川氏は味方せず、同年9月に一色義定は宮津に呼び出され謀殺される。
筆者は、細川氏の丹後支配にとって、かねてから一色氏が障害となっていたため、政治混乱に乗じてだまし討ちを行なったとみている。謀殺事件が、本能寺の変後3か月も経っていることからも、不自然である。これによって、丹後一色氏は滅亡したのであるが、後に細川氏はその祟りを恐れ、城内に鎮魂のための神社(一色稲荷社)を建立した。