小泉セツ&小泉八雲の夫婦がモデルとなった朝の連続テレビ小説『ばけばけ』が注目されています。実はその小泉夫妻と、明治の文豪・夏目漱石と妻・鏡子は、不思議と重なり合う縁で結ばれていた、というのをご存じでしょうか。

夏目漱石の研究家として知られ、『心を癒す漱石の手紙』などの著書を持つ、作家で雑誌編集記者の矢島裕紀彦さんによると、二人の文豪とその妻たちには奇縁と呼ぶしかないような不思議なつながりがあると言います。

多数の文献や手記を紐解きながら、二組の夫婦の知られざる素顔を全26回の連載にて紹介します。

第16回では、八雲、漱石それぞれの友人たちとの付き合いの一片をご紹介します。友人を大事にするところは、二人に共通した心根の良さの表れでしょう。

文・矢島裕紀彦

病気の友を呼び寄せて面倒を見た漱石

大学院時代にはじめた夏目漱石の弓は、遠く伊予松山の地まで引き継がれた。

ひとつの目撃談がある。明治28年(1895)6月中旬、郷里の松山に帰省した高浜虚子は、城山の麓の少し高みの、一番町の裁判所の裏手にある古道具屋の家を訪ねた。そこはもと家老の屋敷のあった場所で、裏手の広い敷地の中には蓮の生えている池や松林もあった。虚子が裏庭に回ると、蓮池の手前の空地に、ひとりの若い男が弓を持って立っていた。それが漱石であった。後年、虚子は綴っている。

漱石氏の着ている衣物(きもの)は白地の単衣(ひとえ)であったように思う。その単衣の片肌を脱いで、その下には薄いシャツを着ていた。そうしてその左の手には弓を握っていた。漱石氏は振返って私を見たので近づいて来意を通ずると、「ああそうですか、ちょっと待ってください、今一本矢が残っているから。」とか何とか言ってその右の手にあった矢を弓につがえて五、六間先にある的をねらって発矢(はっし)と放った。その時の姿勢から矢の当り具合などが、美しく巧みなように私の眼に映った。(『漱石氏と私』)

漱石は、この2か月前、英語教師として愛媛県尋常中学校(松山中学)に赴任し、この古道具屋の家に下宿していた。虚子はその下宿を訪ね、偶然、弓を引く漱石の雄姿を目にしたのである。

松山に漱石を訪ねた理由について、虚子は《子規居士から勧められた》とだけ記している。子規はこの少し前、新聞「日本」の記者として日清戦争終末期の中国大陸に渡り、帰路5月17日、船中で喀血した。神戸上陸後、担がれるようにして県立神戸病院に入院、一時は危篤状態に陥った。虚子はこのとき京都にいて、連絡を受け看護に駆けつけた。やがて子規の病状が少し落ち着いたところで、松山入りしたのだった。

子規からすれば、自分の後継者と目す虚子を文学的畏友・漱石と面会させ、親しく話をさせておきたいとの思いがあったのかもしれない。漱石と虚子はこのときが初対面ではない。何年か前、松山の子規の家を、大学の制服を着た漱石が訪問した際、虚子も同席して一緒に松山鮨(ちらし鮨)を食べたことがあった。だが、まだ中学生だった虚子は、大人びた大学生のふたりを前にして堅くなり、ろくに口もきけなかったのである。

訪ねてきた虚子に対し、漱石は当然、子規の病状やその後の見込みなどについて尋ねたはずだ。虚子はそれに答え、退院後の静養といったことにも話が及んだだろう。漱石には病身の親友を支援したいとの思いがある。きっと、「松山で静養するつもりなら僕が面倒を見てもいいよ」くらいの言葉は口にしたに違いない。

子規が母と妹を東京へ呼び寄せたため、松山にはすでに正岡家はない。東京は遠く慌ただしく、コレラの流行も伝えられる。松山には子規の叔父(母の弟)の大原恒徳もいるが、結核に侵された病身は歓迎されざる客であろう。自分なら、そんな子規を許容してのびのび受け入れてやれる。そんな思念が、ふつふつと沸き上がったと思えるのである。

子規が神戸で入院生活を送っていた頃、小泉八雲も神戸の下山手通りに暮らしていた。熊本五高での任期切れを機にいったん教職を離れた八雲は、明治27年(1895)10月上旬、神戸へ転居し、在留外国人向けの日刊英字新聞『神戸クロニクル』の記者として働きはじめた。ハードワークによる視力の衰えや現地外国人社会での交際の煩わしさから、新聞社は翌年1月に退社したが、引き続き神戸に住んで執筆活動を続けていた。3月には米国ホートン・ミリオン社から『東の国から』を刊行。これは、前年9月に刊行されてたちまち版を重ねた『日本瞥見記』(『知られぬ日本の面影』)に続き、好評を得ていた。

7月7日には、松江時代の教え子の大谷正信が神戸の八雲邸を訪れ、一緒に兵庫の大仏と観音像を見物した。大谷は松江中学を卒業後、京都三高と仙台二高で高浜虚子と机を並べた仲であった。このあと、大谷が子規門下で俳句の教えを受け、八雲もまた大谷を通じて俳句の研究を深める未来を、まだ誰も知らない。

7月23日、子規は神戸病院を退院し、須磨保養院へ移って療養を続けた。

虚子の来訪を受けてほどなく、松山の漱石は下宿を変えている。松山市二番町の上野方の離れ、1階と2階にそれぞれ二間ずつある、ひとり住まいには広過ぎる一軒家である。これは、漱石の中では、子規を受け入れる準備という意味合いを持っていたように思えてならない。

漱石が、このころ自身が使っていた俳号(愚陀仏)にちなんで「愚陀仏庵」と名づけたこの下宿に、子規が転がり込んだのは8月27日である。この2日前に松山に帰り、挨拶がてら大原恒徳宅にいったん荷をといた子規に、漱石は次のような手紙(持参状)を書いている。これは、ふたりの間で早くから同居生活の相談ができており、周囲にも伝えられていたことを裏付けている(文中、「鼠骨子」とあるのは俳人の寒川鼠骨のこと)。

今朝鼠骨子来訪、貴兄既に拙宅へ御移転の事と心得、御目にかかり度由(たきよし)申居候間、御不都合なくば是(これ)より直(ただち)に御出であり度(たく)候。尤も荷物抔(など)御取纏め方に時間とり候はば、後より送るとして身体丈(だけ)御出向如何に御座候や。

漱石は、すぐにも子規が来るのを待ちわびている。

漱石自身は離れの2階に起居して学校勤めに出て、1階は子規の好きなように使わせ、ときどき小遣いを渡したりもしていた。漱石はこの頃、中学の英語教師として外国人教師に準ずる80円の月給をもらっていて、多少の余裕があった。子規の新聞記者としての月給30円は、東京の留守宅に必要だった。子規は相応に体調を回復しつつあり、子規を慕う俳友が連日のように集い下宿を賑わせた。授業の準備や英文学の勉強に追われている漱石も、時には運座に参加したという。

50日余りの共同生活を終えて、10円の餞別を与えて帰京する子規を見送ると、漱石の手元には、子規が日々の昼飯に食べた蒲焼などのご馳走の代金の支払いが残されていた。漱石はそれをも笑って受けとめる。帰途、奈良に立ち寄った子規が生み出したのが「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」の名句。これが子規生前、最後の旅になった。

子規の体はこのあとだんだんと深く蝕まれ、脊椎カリエスを発症。

病床六尺、これが我(わが)世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。

と綴るような寝たきりの闘病生活に陥り、漱石がロンドン留学中の明治35年(1902)9月19日、黄泉路へと旅立つのである。虚子から、帰国間近のロンドンの漱石のもとへ子規の訃報が届けられ、漱石は句を詠んだ。
「筒袖や秋の棺にしたがはず」
「霧黄なる市に動くや影法師」

遠い異国の地にあって洋服姿で暮らしている自分は、友の弔いに参列することもできなかった。霧たちこめる都市ロンドンに動く影法師は、亡友の幻影であろうか――。

東京・田端の大龍寺にある正岡子規の墓誌の拓本(昭和20年代に日本歴史学会会員だった筆者の祖父が採取)。墓誌の文字は、生前の子規が遠からぬ死を覚悟して綴った自筆の紙片を基にしている。
《正岡常規 又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名は子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人 伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十円》。
40円に昇給した月給を明記しているのがいじらしい。

八雲亡き後も、遺族のために尽くした友人

ふと、小泉八雲とミッチェル・マクドナルドの友情を想起する。

来日直後、出版社との契約を打ち切って手元不如意の八雲に、マクドナルドは500円の資金を用立てた。後年、八雲が少し余裕ができて返済しようとすると、「あれは君への進物だ」と言って、受け取ろうとしなかったという。

八雲の没後も、マクドナルドは遺族のために親切を尽くした。八雲の米国新聞記者時代からの友人であるビスランド(ウェットモア夫人)と協力して、八雲の評伝をとりまとめ、印税はすべて遺族に送った。講義録の出版も、無償でお膳立てした。長男の一雄を実の息子のように可愛がり、海軍退役後に自分が社長となった横浜グランド・ホテルで働かせた。しばらく手元に置いて教育し英語を身につけさせ、いずれアメリカへ留学させる心づもりだった。それは亡き八雲の望みでもあったから。ところが、大正12年(1923)9月の関東大震災で、マクドナルドはホテルの倒壊とともにその下敷きとなって逝去してしまった。

一雄はその後、不思議な夢を見たという。

横浜をひとりで歩いていると、マクドナルドの部屋のボーイをつとめていた中島という男が向こうからやってきた。マクドナルドについて尋ねると、こんなふうに答えた。

「大地震の一回目の震動がおさまりかけたとき、急いで社長室へ行くと、部屋から飛び出してきた社長は、小柄な私を抱きかかえるようにして煉瓦づくりのアーチの下まで連れていき、ご自分の体で私を包みこむような恰好で揺れのおさまるのを待っていました。もうおさまるかと思っているところへ、二度目の大きな揺り返しがきて、煉瓦が数個、社長の頭を直撃し、続いて大音響とともに全部の煉瓦が崩れ落ちて、瞬時に私たちは瓦礫の下敷きになってしまったのです。小泉さんがちょうど、梨をむいているときでしたよ」

びっしょり汗をかいて一雄は目覚めた。思い返すと、地震のずしんという震動を感じたのは、確かに自分がナイフで梨をむいているときだった。マクドナルドの遺体は瓦礫の下から黒焦げになって発見され、その下には日本人と思われる小柄な遺体があった――。

一雄の長男・小泉時が回想録『ヘルンと私』の中で、父から聞いた話として伝える怪談である。

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jp で『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

(この連載を通しての主な参考文献)
『漱石全集』全28巻、別巻1(岩波書店、1993~1999年)/夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫、1994年)/夏目伸六『父・夏目漱石』(文春文庫、1991年)/夏目伸六『父・漱石とその周辺』(芳賀書店、1967年)/高浜虚子『回想子規・漱石』(岩波文庫、2002年)/松岡陽子マックレイン『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新書、2007年)/荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、1984年)/江藤淳『漱石とその時代』第1部~5部(新潮新書、1970~1999年)/『新潮日本文学アルバム夏目漱石』(新潮社、1983年)/『別冊國文学 夏目漱石事典』(学燈社、1990年)/『夏目漱石の美術世界』(東京新聞、NHKプロモーション、2013年)/出久根達郎『漱石先生とスポーツ』(朝日新聞社、2000年)/江戸東京博物館・東北大学編『文豪・夏目漱石』(朝日新聞社、2007年)/平岡敏夫『「坊つちやん」の世界』(塙新書、1992年)/恒松郁生『漱石 個人主義へ』(雄山閣、2015年)/小泉節子、小泉一雄『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』(恒文社、1976年)/小泉八雲、平井呈一訳『日本瞥見記』上・下(恒文社、1975年)/小泉八雲、平井呈一訳『東の国から・心』(恒文社、1975年)/小泉八雲、平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫、1990年)/小泉八雲、池田雅之編訳『虫の音楽家』(ちくま文庫、2005年)/『明治文学全集48 小泉八雲集』(筑摩書房、1970年)/小泉時共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、2000年)/小泉凡監修『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』(小泉八雲記念館、2016年)/池田雅之監修『別冊太陽 小泉八雲』(平凡社、2022年)/池田雅之『小泉八雲』(角川ソフィア文庫、2021年)/田部隆次『小泉八雲』(北星社、1980年)/長谷川洋二『八雲の妻』(今井書店、2014年)/関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』(恒文社、1999年)/梶谷泰之『へるん先生生活記』(恒文社、1998年)/池野誠『松江の小泉八雲』(山陰中央新報社、1980年)/工藤美代子『神々の国』(集英社、2003年)/工藤美代子『夢の途上』(集英社、1997年)/工藤美代子『聖霊の島』(集英社、1999年)/平川祐弘編『小泉八雲回想と研究』(講談社、1992年)/平川祐弘『世界の中のラフカディオ・ハーン』(河出書房新社、1994年)/熊本大学小泉八雲研究会『ラフカディオ・ハーン再考』(恒文社、1993年)/西川盛雄『ラフカディオ・ハーン』(九州大学出版会、2005年)/西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち』(洛北出版、2024年)/池田雅之『日本の面影』(NHK出版、2016年)/ラフカディオ・ハーン『小泉八雲東大講義録』(KADOKAWA、2019年)/芦原伸『へるん先生の汽車旅行』(集英社インターナショナル、2014年)/嵐山光三郎『文人暴食』(新潮文庫、2006年)/河東碧梧桐『子規を語る』(岩波文庫、2002年)/『正岡子規の世界』(松山市立子規記念博物館、1994年)/『子規全集』18巻、19巻(講談社、1979年)/『志賀直哉全集』第8巻(岩波書店、1999年)/『芥川龍之介全集』第4巻(岩波書店、1996年)/瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』(筑摩書房、1981年)/矢島裕紀彦『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫、2009年)/矢島裕紀彦『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(NHK生活人新書、2003年)/矢島裕紀彦『文士が愛した町を歩く』(NHK生活人新書、2005年)/矢島裕紀彦『文士の逸品』(文春ネスコ、2001年)

 

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