はじめに-墨俣一夜城とは何だったのか
「墨俣一夜城」(すのまたいちやじょう)は、永禄9年(1566)、織田信長の命により木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が築いたとされる砦のことです。現在の岐阜県大垣市墨俣町に位置し、長良川・揖斐川・木曽川が合流する交通の要衝にあたります。
この築城は、美濃の斎藤龍興(さいとう・たつおき)が籠もる稲葉山城を攻略するための前線基地、いわば橋頭堡(きょうとうほ)として構想されたものです。
この記事では、「墨俣一夜城」についてご紹介します。

墨俣一夜城はなぜ必要だったのか
永禄5年(1562)頃から、信長は美濃攻略を本格化させていました。しかし、尾張と美濃の国境は長良川、揖斐川、木曽川と大河川が入り組む地形で、防御にも適した場所でした。美濃国を支配する斎藤氏に対抗するには、国境付近に強固な拠点を築く必要があったのです。
信長は墨俣の地を前戦基地に定め、まず佐久間信盛に築城を命じます。しかし、斎藤勢の夜襲を受け失敗。続いて、柴田勝家も挑みますが、これも斎藤方重臣・長井飛騨守らの攻撃により失敗に終わりました。
二度にわたる失敗ののち、永禄9年(1566)、清洲城で開かれた軍議で、末席にいた木下藤吉郎が築城を買って出たと伝えられています。
ここから「墨俣一夜城」の物語が始まるのです。
関わった人物
【織田方】
織田信長

尾張の戦国大名。美濃攻略を悲願とし、墨俣を前線基地と定めました。二度の築城失敗の後も計画を断念せず、藤吉郎にその難役を託します。
木下藤吉郎

築城の難役を引き受け、周到な準備のもと短期間で城を完成させました。
蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)

築城に際し協力し、兵を率いて工事と防備にあたりました。
前野長康(まえの・ながやす)

藤吉郎に加勢し、築城計画を支えた一人です。
【斎藤方】
斎藤龍興

美濃国主で、稲葉山城に拠っていました。墨俣築城を阻止すべく、たびたび夜襲を仕掛けます。
この事件の内容と結果
永禄9年(1566)9月、藤吉郎は蜂須賀正勝や前野長康らの協力を得て、東尾張や武儀郡で材木を調達し、木曽川左岸で加工。用材を筏に組んで川を下し、現地へ一挙に搬入するという計画を立てます。
藤吉郎は、正勝・長康らとともに兵二千余を率いて9月12日早朝に出発。昼頃には現地で馬柵の構築を開始。夜間に城の建造を進め、13日夕方には櫓や馬柵が完成したと伝えられています。
翌日、斎藤勢約二千が攻撃を仕掛けましたが、藤吉郎は伏兵と城内兵の挟撃でこれを撃退します。15日には信長と部下千五百余も入城し、墨俣は織田方の前線拠点として機能することになったといいます。
「一夜城」という呼称は、この迅速な築城を称えたものであり、実際には周到な計画と準備が成功の背景にありました。

墨俣一夜城、その後
墨俣城は美濃攻略の橋頭堡として重要な役割を果たし、やがて稲葉山城が落城すると、その役割を終えました。
藤吉郎はこの功績により頭角を現し、信長の有力家臣として出世の階段を上ります。後に天下人となる豊臣秀吉の飛躍は、この墨俣築城成功から始まったといっても過言ではないでしょう。

まとめ
墨俣一夜城は、「一晩で築いた奇跡の城」ではありません。周到な準備、物流の工夫、地形の把握、そして大胆な決断があって初めて成し遂げられた築城でした。
この成功によって木下藤吉郎は大きく飛躍し、美濃攻略は現実のものとなります。墨俣一夜城は、戦国史における「出世の起点」ともいえる歴史的事件だといえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
写真/京都メディアライン
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)











