昨年夏『サライ.jp』に連載され好評を博した《実録「青春18きっぷ」で行ける日本縦断列車旅》。九州・枕崎駅から北海道・稚内駅まで、普通列車を乗り継いで行く日本縦断の大旅行を完遂した59歳の鉄道写真家・川井聡さんが、また新たな鉄道旅に出た。今回の舞台は北海道。広大な北の大地を走るJR北海道の在来線全線を、普通列車を乗り継ぎ、10日間かけて完全乗車するのだ。
※本記事は2018年5月に取材されたものです。北海道胆振東部地震により被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。少しでも早い復旧と皆様のご無事をお祈りしております。
文・写真/川井聡
宗谷本線きっての明景を眺めた後、10分余りで南稚内、そして稚内駅に到着する。
稚内駅より南稚内駅の方が町の中心に近い。じつは開業当初の稚内駅はいまの南稚内駅付近に作られていた。その後、稚内港への接続のために、港の近くに作られたのが稚内駅だ。太平洋戦争終結まで、ここからサハリンへの鉄道連絡船が就航していた。
折り返しの列車は夕方。それまで稚内の街を散策する。「このくらい天気がいいと周辺がぐるっと見えますよ」駅の人に教えられタクシーで丘の記念塔に向かう。
海抜250mと言う塔の展望台からは、利尻・礼文が望め、右に視線をうつすとほのかにサハリンも見える。眼下に延びる防波堤は、終戦まで稚内と樺太(サハリン)の大泊港を結んだ稚泊連絡船が発着した港である。ドーム型の防波堤は駅の機能を併せ持つ独特のもの。かつて列車を引き入れたドームの優美な曲線は、明治時代の俊英土木技師・土谷実氏が設計した近代建築の白眉である。
宗谷本線の建設計画は、明治29年に公布された北海道鉄道敷設法にさかのぼる。「旭川より稚内に至る鉄道180哩」で、当時緊迫しつつあったロシアとの関係の戦時輸送を念頭に置いたものである。旭川から建設がすすめられ、稚内に達したのは、1922(大正11)年のこと。当時のルートは音威子府から東北方向に向かう旧天北線経由。現在の宗谷本線ルートが開通したのは1926(大正15)年である。いずれも日露戦争には間に合わなかったが、第二次世界大戦の樺太出兵、そして敗戦後の引き揚げ者輸送などには大きな力を発揮した。戦後は札幌や旭川と、名寄・稚内方面への主要交通ルートとしてその役割を果たしてきた。
長年にわたり、宗谷本線の優等列車は急行までだった。定期の特急列車が走るようになったのは2000(平成12)年。これは道内で一番後である。2018年現在も稚内に行く高速道路はなく、稚内空港は天候の関係で欠航率が高い。鉄道はいまも稚内の重要な生命線ではあるが、やはり移動の中心は車である。
2016年、JR北海道は「自社単独で維持することが困難な路線」を発表。名寄~稚内は「自社単独では老朽土木構造物の更新を含め「安全な鉄道サービス」を持続的に維持するための費用を確保できない線区」とされてしまった。北海道と樺太を結んだ路線も存続の危機である。
最北の街で、6時間。乗り換えの列車を待つ。乗り換えと言っても折り返すだけなのだが、街だけじゃなく、国境の向こうまで眺めることができた。
稚内を堪能した後、駅に戻り列車に乗車する。18時04分発、旭川行き。この列車にそのまま乗りつづければ旭川まで行けるのだが、到着は深夜になる。途中下車して今日は名寄泊の予定だ。
一両きりのディーゼルカーで、夕方近い稚内を出発した。
稚内からの乗客は少ないが、南稚内で学校帰りの学生たちが乗車する。座席もかなりうまってくれた。
北上のときは、車窓をたのしめるようゆっくりした走りだが、今回は通常どおりの走り、とくに速度を落とすこともない。観光客の時間じゃなく通学通勤の時間なのだ。蒼く染まりかけた空を背景に水平線から利尻富士がそびえ、列車は軽快に坂を下る。
夕焼けの名残を追いかけるように走る。夜の空と夜の大地のあいだ。その隙間に利尻富士が浮かぶ。先ほどとは違い、夕方の雲に溶けそうな表情だ。
「鹿のジンギスカンってあるんだね」車窓を眺めながら乗り合わせたおばあさんと話していたら、急にそんな話が飛び出した。内地同様、最近は鹿が増え、害獣駆除した鹿肉の処理から生まれた名産品のようだ。
「鹿も牛もいっぱいいます。いないのは人だけ」
パチンコ帰りと言うおばあさんは、積丹半島に近い雷電海岸で漁師の子として生まれた。5年生の時には洞爺丸台風が襲ってきた。洞爺丸の沈没で知られる台風だが、岩内地方では大火が起き、家を無くした家族は街を離れ稚内に出たという。
いまは稚内に近い街で暮らしている。今日は、パチンコでは3時間で一万数千円使ってきた。
「ほかにやることないんだもん」周りは離農した家ばかり。話す相手にも不自由する。
夕暮れの無人駅で一人下車していった。
静かになった車内から窓の外を眺める。
「夕方」と「夜」との狭間に浮かぶ利尻富士の姿に感嘆。
赤紫や橙、濃紺の空に利尻が浮かんでいる。
さっきのおばあさんにも見せてあげたかった。
ボックス席の高校生は、見慣れた様子。
話をしていたら、「もっときれいな日もあるんですよ」と携帯に撮りためた夕暮れの写真を見せてくれた。
利尻島、サロベツ原野など、毎日乗っている人にしか見えない景色が詰まっていた。
自宅と学校を行き来する約2時間。車窓から見る故郷の風景はいつの間にか生活の一部になっている。
こんな話を聞かせてくれた。
“毎日乗ってて思ったこと
JRが無くならないんだったら、ずっと乗っていたいなぁ。無くしてほしくないなぁ。
宗谷本線が無くなるかもしれないと聞いて、居ても立っても居られない気持ちになってる。
自分で役に立つなら、JRに入ってその助けになりたいと思っている。
接客が好きだから、みどりの窓口でお客さんの案内をしたい。
でも、合格するだろうか。“
もとより自分が何かできるわけではないが、応援したい気持ちになる。
ふるさと北海道を守っていけるのは、彼女のような若い力なのだ。
彼女の夢がかなうことを心から祈りながら、後姿を見送った。
あしたはきっとすばらしい。そう思いながら21時49分、名寄駅到着。
《8日目に続く!》
【7日目・その2乗車区間】
稚内~名寄(宗谷本線)
【7日目乗車区間】
美深~稚内~名寄(宗谷本線)
7日目の総乗車距離 344.3km、7日目の新規乗車 161.1km、未乗車距離 473.7km
文・写真/川井聡
昭和34年、大阪府生まれ。鉄道カメラマン。鉄道はただ「撮る」ものではなく「乗って撮る」ものであると、人との出会いや旅をテーマにした作品を発表している。著書に『汽車旅』シリーズ(昭文社など)ほか多数。