文/矢島裕紀彦

落語界の「昭和の名人」といえば、5代目古今亭志ん生と8代目桂文楽である。天衣無縫の志ん生と、きっちり型に嵌めて一言半句の狂いもない文楽。対照的なふたりだった。志ん生は伝説的な大酒飲みだったが、文楽も酒は嗜んだ。

昭和46年11月のある日、文楽がウイスキーボトル持参で、友人でありライバルでもあった志ん生のもとを訪れた。ダルマの愛称で親しまれる国産ウイスキーのボトルだった。

それよりさらに三カ月ほど前、文楽にひとつの事件があった。高座の上で噺の中に登場する人物名を忘れて絶句。「申し訳ありません。もう一度、勉強しなおしてまいります」といって客席に深々とお辞儀し、舞台の袖に消えたのだった。

それ以来、文楽は高座に上がっていなかった。自分の中で引退を決めていたのだろう。文楽はこんな日のくることを予期して、しばらく前からお詫びの言葉の稽古まで重ねていたと伝えられる。

文楽は志ん生のもとを辞する時、ボトルのラベルにマジックで「文」の字をサインして、「また来ます。このウイのビンはここへ預けとこう」と言って帰っていった。そして、そのまま二度と訪れることはなく、ひと月後に逝った。

志ん生と今生の別れのウイスキーを飲み交わすためだけに、その日、ボトル持参でやってきた文楽なのかもしれなかった。志ん生もそれから2年と経たないうちに、天上の人となった。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。著書に『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。現在「漱石と明治人のことば」を当サイトにて連載中。

※本記事は「まいにちサライ」2012年4月21日配信分を転載したものです。

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