どこから出てきたのか。足軽あがりのその者には稀なる才が宿っていた。その才を持って、民草(たみくさ)から天下人へと駆け上がった、日本史上ただひとりの男。豊臣秀吉。その謎に満ちた生涯を、解き明かす。
『なぜ“民草”が天下人になれたのか』の記事も合わせてご覧下さい。
「時代別に活躍した3人の参謀が秀吉の強さを支えました」小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)

享保6年(1721)、狩野随川筆。朝鮮出兵の際、秀吉が肥前の名護屋城(唐津市)まで持って行ったとされる「色々威二枚胴具足(いろいろおどしにまいどうぐそく)」を着用している。傍に置かれた兜の後立は法具の払子(ほっす)をかたどっている。武装した秀吉の肖像画は珍
しい。名古屋市秀吉清正記念館蔵 写真/名古屋市秀吉清正記念館
実は生涯に“負け戦”なし
秀吉は生涯に多くの合戦を行なっているが、戦(いくさ)全体を通して大敗を喫したことはなかった。
その常勝秀吉軍の強さの象徴が、“軍師”と呼ぶべき3人の参謀役の存在であった。その3人とは竹中半兵衛重治、黒田官兵衛孝高、そして秀吉の実弟・豊臣秀長である。彼らはいかにして秀吉の信頼を得たのか。
小和田哲男さんはこう語る。
「近江国の大名・浅井長政を攻める際、秀吉は竹中半兵衛に浅井の家臣の切り崩しを命じました。そこで半兵衛がみせた調略能力は見事だった。自身が調略の才で信長に取り立てられただけに、秀吉は半兵衛を“こいつは自分と同じような能力がある”と思って抜擢したのではないでしょうか」
しかし半兵衛は、播磨の三木城攻めの最中に急死してしまう。そこで半兵衛に代わる参謀として起用したのが、信長の家臣となっていた播磨の姫路城主・黒田官兵衛だった。
官兵衛を得たのち、秀吉は中国方面軍の司令官として乗り込むが、秀吉は中国地方に拠点がなく、徒手空拳の状態だった。
「そこで官兵衛は秀吉に、使ってくれとばかりに自身の姫路城を差し出すのです。官兵衛の機を見るに敏な、思い切りのよさを表しています。姫路城はその後、秀吉の中国大返しの際に重要な役割を担います」
絶対的信頼を受けた豊臣秀長
秀吉の弟秀長は、秀吉の絶対的な信頼のもと、四国攻めの総大将など、まさに秀吉の分身としての役割を果たしていく。
「天下統一の総仕上げである小田原攻めも、病気にさえならなければ秀長は総大将クラスで出陣したでしょう。その翌年に秀長は逝去しますが、豊臣政権にとって重大な痛手でした」
ドラマや小説などでは、秀長は秀吉の朝鮮出兵に反対し、豊臣家の行く末を案じながら亡くなっていったように描かれることがある。本当だろうか。
「その逸話は研究者の間で疑問符がつけられている『武功夜話』という史料にのみ記されているため、あまり信憑性のある話とは捉えられていません。しかし私は、秀長が朝鮮出兵に反対したというのはありえると思っています。なぜかというと、秀長が亡くなると秀吉はすぐに朝鮮への前線基地となる名護屋城の築城を命じているのです。豊臣家の実力者の秀長が朝鮮出兵に反対したら、秀吉も築城を強行できなかったでしょう」
実際、秀吉の朝鮮侵略は失敗し、豊臣政権は揺らいでいく。
これら優れた“軍師”あってこそ、秀吉は連戦連勝を続けて天下を掴んだのだった。
軍配からして派手好み

表面(画像)は金地に朱塗りで桐紋が、裏面は銀地に金蒔絵で桐紋が描かれている。軍勢を指揮するための軍配にも秀吉の派手好みの趣向が窺える。
大阪城天守閣蔵 写真/大阪城天守閣
常勝の秀吉軍団を支えた3“軍師”
竹中半兵衛(1544~79)

美濃、近江攻めの調略で秀吉をサポート
諱(いみな・本名)は重治。美濃国菩提山城主・竹中重元の子。主君である美濃の大名・斎藤龍興の暗君ぶりを見かね、その居城の稲葉山城(のちの岐阜城)をわずかな手勢で奪取するとすぐに返還、その名を轟かせた。織田信長の美濃征服後にその臣下となり、秀吉の要望を受けて秀吉の与力(補佐役)となった。調略を得意とし、秀吉の中国攻めなどで活躍するも、36歳の若さで病死した。東京大学史料編纂所蔵・模本 写真/東京大学史料編纂所
黒田官兵衛(1546~1604)

秀吉の中国攻め以降の軍略ブレーン
諱は孝高。播磨国の姫路城を本拠とする在地の小領主で、秀吉の仲介により織田信長に臣従した。秀吉の中国攻めの際、その与力として合流し、本能寺の変を知ると秀吉に明智光秀を討つことを献策したとされる。秀吉の九州攻め後に豊前国(大分県)を与えられ、九州統治の要となった。家督を嫡男の長政に譲ったのちも引き続き秀吉の側近として仕え、出家したのちは如水と名乗った。59歳で病死。東京大学史料編纂所蔵・模本 写真/東京大学史料編纂所
豊臣秀長(1540~91)

豊臣軍の総大将を担った絶対的信頼の弟
通称は小一郎。秀吉の異父弟ともされるが同父弟の説が有力。秀吉が中国攻めの司令官として播磨攻略を進めていた天正6年(1578)頃より確かな史料に名前が表れる。秀吉の中国攻め以降は、秀吉のほとんどの合戦に参加し、四国攻めでは総大将を担う。大和郡山城主で100万石を領し、大和大納言と称される。豊臣政権の重鎮として存在を示したが、秀吉に先立って52歳で病死した。東京大学史料編纂所蔵・模本 写真/東京大学史料編纂所
解説 小和田哲男さん(静岡大学名誉教授・81歳)

取材・文/上川畑 博
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