文/柿川鮎子
江戸の戯作者、曲亭(本名・滝沢)馬琴の代表作のひとつがご存知『南総里見八犬伝』です。NHK放映の人形劇をなつかしく思い浮かべる人も多いでしょう。
「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の球を持つ犬士が大活躍する八犬伝は、1814年(文化11年)の出版当初から大人気となり、歌舞伎や浄瑠璃に取り上げられ、現在でも映画やアニメ、ゲームとなって受け継がれてきました。物語にちなんで千葉県館山市や鳥取県倉吉市では里見祭りが行われ、八犬士に扮した行列を見ることができます。
八犬士の活躍ぶりには愛犬家を納得させるシーンも多く、犬川荘助義任が下男として辛抱強く過ごすシーンは柴犬がひたすら我慢する姿に通じるものがあります。犬山道節忠与の切れっぷりは、秋田犬が前触れなく狩りへの本能を発揮する姿に通じており、なるほど犬をよく知っている作者だと感じさせられます。
さぞや愛犬家なのでは……と思いきや、彼の日記を読むと、意外にも犬より鳥の愛鳥家で、鳥好きが高じて図鑑まで作っていたのでした。
そんな馬琴の愛鳥家ぶりがわかるエピソードをご紹介しましょう。
■その1:鳥大好きが高じて鳥の図鑑を作成した
馬琴は少年時代から野鳥に親しんでいたようです。現存する最も古い馬琴の俳句の中に「鶯のはつねに眠る座頭かな」という作品があり、七歳頃に作ったものだと伝えられています。三つ子の魂百までとか、雀百まで踊り忘れずということわざ通り、大人になっても馬琴は鳥好きでしたが、突然父親を亡くし、一家離散するなど、若い頃は鳥どころではありません。
今でいうフリーター的な存在で、医者になろうと弟子入りしてすぐに辞めたり、母親が亡くなった時は馬琴だけでなく三兄弟の全員が定職に就いていません。母の遺産でようやく生活の基盤を整え、商売人の家に婿入りしますが、商売には見向きもせずに書き物ばかりしていた困った主人だと嫁の実家に叱られる。しかし、苦労の末、戯作者として徐々に地位を確率し、不朽の名作「里見八犬伝」を上梓することができました。
八犬伝人気で、名声と経済的基盤を得た馬琴は、鳥好きが高じて渥美赫洲(あつみかくしゅう)に鳥を描かせ、自ら注記を加えた「禽鏡」という鳥図鑑を作成しています。禽鏡は転写図が中心ですが、一般には目にしにくい大名所蔵図の絵の写しもあり、見事な作品が掲載されている逸品です。
禽鏡では日本に渡ってきた珍しい鳥も描かれており、代表的なの例としてレンカクがいます。台湾半島や東南アジアに生息する蓮の上を歩く水鳥ですが、現在、日本では生息していません。江戸時代にレンカクが迷鳥として海を渡ってきていた記録がきちんと残されている点からも、学術上価値のある図鑑と言えるでしょう。馬琴は漢学者、戯作者としてだけでなく、鳥類学者としても優れた才能をもっていました。
禽鏡だけでなく、他にも鳥にちなんだ読み物として、北尾重政作画の「養得筎名鳥図会(かいえたりにわこめいちょうずえ)や、「野夫鶯歌曲訛言(やぶうぐひすうたのかたこと)」などがあります。養得筎名鳥図会の舞台は名鳥を見せて酒を売る花鳥茶屋。それぞれのタイトルがフクラスズメなど、鳥にちなんでいます。野夫鶯歌曲訛言は主人公がウグイスのようにおしゃべりだという設定で、馬琴の作品の中でも肩の力が抜けた、気楽な読み物に仕上がっています。
■その2:鳥飼育の達人としても有名人だった
珍鳥を松前老侯から貰ったり、飼育しにくい鳥を八年も飼い続けたという記述も残されていて、馬琴は優れた飼育者でした。馬琴の鳥好きを知って、ひんぱんに鳥屋が出入りしています。上手に繁殖させた結果、あまりにも増えすぎてしまって困った経緯など、日記には愛鳥家ならではのエピソードもたくさん。実際に飼育されたかどうかは不明ですが、鳥屋に紹介されたり、見かけるなど感想を日記などに記した鳥は以下の通りです。
カッコウ、ホトトギス、ウグイス、コマドリ、オオルリ、コルリ、ホオジロ、ミヤマホオジロ、カシラダカ(ミヤマカシラ)、キビタキ、ジョウビタキ、サメビタキ、コサメビタキ、メボソムシクイ、キセキレイ、マミジロ、オナガ、コガラ、ヒガラ、エナガ、シジュウカラ、ゴジュウカラ、ヤマガラ、キクイタダキ、ノゴマ、ミソサザイ、ヒバリ、オオヨシキリ、コヨシキリ、ノジコ、コゲラ、アオゲラ、ケリ、クロツグミ、シギ、メジロ、ヒバリ、センニュウ、カナリア、ブンチョウ、ジュウシマツ、キンバト、ギンバト、シラコバト、ドバト、ホオアカ、ウソ、オシドリ、アオジ、クロジ、マシコ、イスカ、スズメ、コガモ、チャボ、ウズラなど。
愛鳥家ぶりがうかがえる部分が、カナリアに関する日記の記述です。カナリアはたくさん飼育したようで、日記にもしばしば登場します。
文政十年四月廿四日己巳晴一、去戌年春出生カナリア壱番子、雄極黄一羽朔日隕ル。今朝知之。最初、巣いたミニて、よはく候処、近来度々糞づまりによつて也。去春出生子五羽之内、是迄ニ三羽隕ル。残り二羽とナル。全体、玉川(原文のママ、玉子のこと?)のキミ実入薄く、よろしからざる故もあるべし/今朝、ほととぎすの初声辰巳のかたに数声。今日立夏後十日ニ及べり。
可愛がっていた雄のカナリアが亡くなってしまった、原因は便秘なのかもしれないと書いています。亡くなったカナリアを悼む中、ホトトギスが今年初めて辰巳の方角(東南方向)にいて鳴いていた、と、何とも愛鳥家らしい心の動きではありませんか。
特に春生まれの一番子という部分や、五羽のうち三羽も落ちてしまったのは卵の実入りが悪いのかというところなど、きちんと愛鳥を管理して飼育する様子が伺えます。今でも鳥が亡くなることを落ちると言いますが、馬琴も亡くなった鳥について隕(おち)ルと書いており、愛鳥を亡くした静かな悲しみが伝わってくるような気がします。
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以上、まさに生涯、鳥づくしだった八犬伝作家の曲亭馬琴の愛鳥家ぶりがわかるエピソードをご紹介しました。
馬琴は八犬伝を執筆最中に両目ともに失明し、息子の嫁である路(みち)に口述筆記させて物語を完成させました。息子は若くして病死し、孫はまだ幼く家督を継ぐことはできません。妻は頼りにならないところか、路との仲を疑うしまつ。
滝沢一家を支えるため、路は舅の仕事を手伝い、子育てと家事に孤軍奮闘しました。馬琴が嘉永元年(1848)年82歳で死去した十年後の安政5(1858)年、路は53歳でこの世を去ります。両者の墓は東京都文京区小日向の深光寺に少し離れて建っています。
馬琴の最後については路が残した日記にその様子が詳しく書かれています。気管支炎かぜんそくの症状が悪化して、胸が痛いと苦しみました。馬琴が病気になったという噂は広まり、さまざまな見舞い品が寄せられます。
路は見舞いの品も丁寧に記録に残しましたが、その中に「鳩生焼」という文字が載っています。鳩肉を滋養強壮剤として食したのか、あるいは薬として焼いて調理したのでしょうか。
そんな馬琴ですが、今年は生誕250年を迎え、全国各地でさまざまな記念イベントが行われています。
文/柿川鮎子
明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。