
大河ドラマ『豊臣兄弟!』劇中で、重臣として信長の面前に伺候する丹羽長秀(演・池田鉄洋)。この場面から約300年後の1868年、陸奥国二本松では、丹羽長秀の子孫が治める二本松藩が板垣退助らを主力とする新政府軍に攻められ居城二本松城は落城します。織田家の重臣だった丹羽家がなぜ、最後の最後まで徳川家に忠誠を尽くしたのでしょうか。
* * *
徳川幕府が斃れたあとの奥州で、東北地方と越後の諸藩が設立した「奥羽越列藩同盟」と、新政府軍との間で、戊辰戦争と呼称される戦いが勃発しました。薩長を主力とする新政府軍に対して組織的な抵抗をした主な藩は、奥羽の盟主仙台藩、米沢藩、二本松藩と会津藩、そして庄内藩などです。
会津藩は二代将軍徳川秀忠の四男である保科正之を藩祖とする親藩。庄内藩は徳川家康配下の「徳川四天王」の筆頭酒井忠次を藩祖とする有力譜代大名。いずれも徳川とのつながりが深い大名たちでした。仙台藩は伊達政宗を藩祖とする大大名、米沢藩は、第3代藩主上杉綱勝急死の際に、会津藩主保科正之の協力で、吉良上野介の息子綱憲が末期養子に認められたことから、会津藩に恩義を感じていたといいます。
一方の二本松藩は、丹羽長秀を祖とする外様大名でした。
会津藩では、白虎隊という16~17歳の少年兵19人が、飯盛山で自害するという悲劇が今日に伝えられています。実は、白虎隊の悲劇の1か月前には二本松藩でも60数名の「二本松少年隊の悲劇」があったのです。
二本松藩の幕末の藩主は丹羽長裕。「徳川四天王」にして西国の監視役を自認していた彦根藩井伊家は、いち早く官軍側に恭順。同じく「徳川四天王」の榊原氏、本多氏も「徳川」に殉ずることはありませんでした。では、なぜ『豊臣兄弟!』で織田信長(演・小栗旬)の重臣会議に出席している丹羽長秀の子孫は、外様大名でありながら、最後の最後まで「徳川」に尽くしたのでしょうか。
関ヶ原の際に「西軍」参陣でも生き残った
丹羽家が、近世大名として明治維新を迎えるまでの流れを振り返りたいと思います。まずは、織田信長が討たれた「本能寺の変」後の身の処し方です。
『豊臣兄弟!』劇中で、織田信長の重臣会議のメンバーになっている林秀貞(演・諏訪太朗)、佐久間信盛(演・菅原大吉)、森可成(演・水橋研二)、丹羽長秀、柴田勝家(演・山口馬木也)ですが、このうち、近世大名として、江戸時代を生き延びることができた家は、森可成の森氏と丹羽長秀の丹羽氏の2家のみです。
林秀貞、佐久間信盛は信長に追放され、森可成は浅井長政・朝倉義景の連合軍との戦いで討ち死にします。
当初は、自分たちよりはるかに格下だった藤吉郎秀吉が出世し、自分たちの「同輩」となり、本能寺の変後に、その地位は逆転します。
柴田勝家は、秀吉配下になるのを拒否し、雌雄を決することを選び、敗死します。今さら秀吉の下につけるかという明確な意志を感じる最期でした。柴田勝家がどのような思いで秀吉と対峙したのか、自分の与力大名だった前田利家の離反をどう受け止めたのか。秀吉の配下になって家名を守ろうという考えはなかったのか。いや、そもそも秀吉などに負けるはずがないと思っていたのかもしれません。そのあたりの機微を『豊臣兄弟!』はどのように描いてくるのでしょうか。
一方の丹羽長秀は、秀吉の配下につくことによって、越前、若狭、加賀半国で123万石という大大名として家名を残します。
ところが――。
秀吉に臣従する道を選んだ丹羽家ですが、その後も辛酸を舐めることを強いられました。当初、丹羽長秀が天正13年(1585)、51歳で亡くなったことで、丹羽家と秀吉のパワーバランスが崩れます。嫡男の長重は、秀吉から軍令違反という「難癖」をつけられて、若狭一国15万石にさらに、松任4万石にまで格下げされます。この過程で、丹羽家の有力家臣が独立したり、秀吉配下に吸収されるなど、「名門丹羽家」は窮地に陥ります。
【次ページは『関ヶ原合戦で西軍に属して、いったん改易に』『二本松少年隊の悲劇』】











