文/鈴木拓也
日本有数の老舗和菓子店として知られる『両口屋是清』。その歴史は江戸の寛永年間にまで遡る。
徳川御三家の尾張藩のもとで、江戸、大坂、京都につぐ都市へと成長していった名古屋。寛永年間の1634年、大坂から新天地を求めこの名古屋にやってきたのが、若き猿屋三郎右衛門という人物だ。彼は家を借りて饅頭屋を開業し、近くの武家屋敷や商家を相手に商いを始めた。
三郎右衛門には、いつの日か尾張藩御用達の菓子商人になるという大志があった。しかし、これが果たせたのは、三郎右衛門が逝去した翌年の1671年、2代目の三郎兵衛が店を切り盛りしていた頃のことであった。それから15年後、2代目藩主の徳川光友より『御菓子所 両口屋是清』の表看板を賜ることとなる。
享保年間には城内の菓子御用の多くを引き受け、後には名古屋東照宮二百年御遠忌の菓子御用も務めるなどして、名声は広まり、他藩から菓子を買い求めに来る人も増えたという。
江戸の世が終わりを告げ、廃藩置県に伴って藩の御用の特権を失った多くの商家が没落するなか、『両口屋是清』は激動の明治時代を生き延びた。大正期の『両口屋是清』は、見本菓子を得意先に見せて回り、注文を受けては納品するのを常としていた。この頃は、従業員は10人足らずであったという。
昭和に入ってしばらくした1934年、『両口屋是清』は株式会社を設立し、11代目の大島清治が社長に就任。初代社長はアイデアマンとして知られ、独自の銘菓を続々と発案した。
例えば、こんなエピソードが残されている。
絶えず新商品の構想を練り、菓子職人たちと「あれはどうか、これはどうか」と試作を重ねた大島。だがなかなか「これ」といったものが出てこない。
ある朝のこと、自宅の茶室からふと庭を眺めると、「二人静」の小さな花が目にとまった。「この清楚な感じをなんとか菓子としてあらわせないだろうか」という思いが閃いた。
しかし白いだけでは菓子の意匠になりにくいし、ただ甘いだけでもいけない。試行錯誤の末に完成したのが、和三盆を素材とした白と薄紅の半球を合わせた小さな玉を、ひとつずつ和紙でくるんだ菓子。
『二人静』と名付けられ、『両口屋是清』の銘菓のひとつとなった。
またこんな逸話もある。
戦後の陰鬱な世相を一新すべく始まった国民体育大会の第5回(1950年)大会が愛知県で開催されることに決まったとき、来臨する天皇・皇后両陛下に供する菓子を、『両口屋是清』が担当することになった。大島清治は光栄を噛みしめつつ、どのような菓子を作るべきか思案に暮れた。
皇室向けの菓子には、菊や桐の紋をアレンジした畏まったものが多い。「ならば、両陛下が旅に出られたときぐらいは、それとは趣の異なる素朴なものがよいのでは」と考えた大島が、先祖から伝わる秘蔵の備前の花入れ(銘旅枕)にインスピレーションを得て生み出したのが、銘菓『旅まくら』である。
一口サイズの大きさながら、薄皮に包まれた餡の風味は濃厚かつ上品な味わいである。
この『旅まくら』を召し上がった両陛下は「たいそうお喜びに」なったという。こうして『両口屋是清』に看板製品がまた一つ増えた。
今では全国に約110店を数えるまでになっている『両口屋是清』。たとえ規模は拡大しても、のれんを大切にし、後代に伝えることを第一に、菓子を作り続けている。
『両口屋是清』
住所(本町店) | 愛知県名古屋市中区丸の内3-14-23 |
電話 | 052-961-6811 |
公式サイト | http://www.ryoguchiya-korekiyo.com/ |
営業時間 | 8:30~19:00 |
文/鈴木拓也
2016年に札幌の翻訳会社役員を退任後、函館へ移住しフリーライター兼翻訳者となる。江戸時代の随筆と現代ミステリ小説をこよなく愛する、健康オタクにして旅好き。
取材協力/両口屋是清