文/鈴木拓也
1620年、徳川家康のいとこであった水野勝成が、福山藩に初代藩主として入府。その居城として福山城が築かれるに際し、幕府は廃城となった伏見城の「松の丸東櫓」を下賜した。その運搬を請け負ったのが、兵庫津で廻船問屋と染物屋を営んでいた高田宗樹(たかた・ぞうじゅ)である。
宗樹は、この功績により、藩主より福山城下に土地を拝領し、同年そこへ移り住んだ。そして、これまでの事業と並行しながら、菓子屋を開業した。これが、今に続く『虎屋本舗』の創業である。
1622年、福山城が落成して、祝いの茶の湯会が開かれることになった。宗樹は、この席に菓子を献上した。これが藩主に気に入られ、宗樹は「福山藩御用菓子司」の看板を戴く。
藩主は、茶席で献上された饅頭に、築城を祝して盛大に行われた「とんど祭り」にちなんで『とんど』と名づけ、城内の御用菓子として愛用した。この『とんど饅頭』は、後に明治神宮や金剛峯寺の御用菓子として称揚されながらも、製法や風味は変わらず継承され、四世紀経った今も同店の看板製品であり続けている。
虎屋のもう一つの名物が「虎焼」だ。
1750年、徳川吉宗治世の頃のこと。八代目・高田助四朗は、祖業の廻船問屋をやめて菓子匠を専業とすることを決断。屋号は、創業者の宗樹が寅年生まれであったこと、虎は福を呼び込む縁起物であることから『虎屋』と決めた。
そして助四朗は、新たな屋号にあやかり、虎の模様に焼き上げたどら焼きである『虎焼』を生み出した。これが城下町で大きな評判を得て、「虎屋の名物は虎焼」といわれるほど、店の代名詞的存在となった。
助四朗の時代は、元禄バブルが崩壊して多くの商人が苦難にあえいでいた。助四朗も例外ではなかったが、菓子業への選択と集中、新製品の開発によって、苦しい時期を乗り越えた。
虎屋が、これを上回る存亡の危機に直面したのは、太平洋戦争の最末期であった。原爆を投下された広島市から福山市へと避難民が押し寄せる中、福山大空襲を被った。福山市街は灰燼に帰し、虎屋も焼け落ちた。残ったのは、工場地下にあったいくばくかの原材料のみ。
十四代当主の高田銀一は、玉音放送を聞きながら「全てが無くなったが、職人としての腕と志だけは灰にできんじゃろ」と呟き、再起を誓った。
そして1952年、株式会社虎屋本舗を設立し、江戸から続く老舗は灰の中から見事によみがえった。
戦後の再興から平成の世にかけての虎屋本舗は、伝統と革新の両輪を回しながら、多くの人に喜ばれる菓子作りを目指した。
第十六代の現当主、高田信吾氏が開発した『洋風生どら焼き 虎ちゃん』や『本物そっくりスイーツ』シリーズは、当初こそ内外から反発を受けたが、今では「伝統技術と精神がなせる技」という評価を確立している。
福山の歴史に寄り添いながら菓子作りを続けてきた『虎屋本舗』は、東京五輪が行われる2020年に創業400年を迎える。そのときには、どんなお菓子が誕生しているだろうか。
今日の老舗 | 『虎屋本舗』 |
住所(曙本店) | 広島県福山市曙町1-11-18 |
電話 | 084-954-7455 |
営業時間 | 8:30~19:00(平日) 8:30~18:00(日曜日) 8:30~19:00(祝日) |
公式サイト | http://www.tora-ya.co.jp/ |
文/鈴木拓也
2016年に札幌の翻訳会社役員を退任後、函館へ移住しフリーライター兼翻訳者となる。江戸時代の随筆と現代ミステリ小説をこよなく愛する、健康オタクにして旅好き。
取材協力/虎屋本舗