今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「そっちの鯉の方が俺のよりもおっけようだなっす。どうか取っ換えてけねがっす」
--斎藤茂吉
夏目漱石とも交流のあった、歌人で精神科医の斎藤茂吉が郷里の山形県に疎開したのは、第2次大戦中、昭和20年(1945)4月のことだった。茂吉は明治15年(1882)生まれだから、このときすでに還暦を過ぎている。上山、金瓶から大石田へと、場所を移しながら、疎開生活は昭和22年(1947)11月までつづいた。
敗戦直後の食糧事情の厳しい中でも、村をあげての親切心に包まれ、大石田の茂吉は穏やかな暮らしをしていた。大地主で銀行づとめの二藤部兵右衛門宅の広々した離れが、大石田における茂吉の住まい。三度の食事も二藤部が面倒を見た。それでいて、家賃も食費も不要。引っ越し当日から翌日にかけては、たくさんの御馳走と酒と村人たちの笑顔が茂吉を迎えたという。こうしたことの一切を、門弟の板垣家士夫が仕切ってくれていた。
あるとき、茂吉は、近在の素封家で遠縁にもあたる佐藤茂兵衛の家に招かれた。隣村に疎開中の画家・金山平三も、共に招待されていた。食膳の前に座った茂吉は、自分の前にある鯉の煮つけと金山の前にあるものとをジイッと見比べる。そのあと、もじもじとした声で言ったのが掲出のことばだという。
笑っちゃいますねえ。
金山は快くこの申し出に応じたが、並べかえると今度はもと自分の前に置いてあった鯉の方が大きく見えてくる。茂吉は再びの交換を要請する。一座はほのかな笑いに包まれ、それを見ていた板垣家士夫と佐藤茂兵衛が自分の鯉を差し出し、茂吉は結局三尾の鯉をもらって大満足したという。
まるで10歳にも満たぬ子どもの所業だが、周囲はほのぼのした空気に包まれる。茂吉には体の奥から自ずとしみ出す、独得のユーモアがあった。
これは、茂吉の長男の斎藤茂太さん(精神科医・エッセイスト)から直接お聞きした話だが、茂吉は、老舗の鰻料理屋でおこなわれた茂太さんの見合いの席で、胸がいっぱいで料理に手のつけられない花嫁候補に向かって、「食べないんだったらその鰻をちょうだい」と申し入れペロリと平らげてしまったという。茂吉は文壇屈指の鰻好きでもあった。
斎藤茂吉には、鯉ならぬ恋の話もある。これについては、いずれまた改めて述べる機会もあろう。ここでは、ただ、60代半ばで老いらくの恋を貫こうとする歌人仲間の川田順に向かって、茂吉が真顔で投げかけたという次のことばを紹介するにとどめておく。
「つかぬことを聞くが、あちらのほうは大丈夫なのかね?」
こんな率直な物言いにも、どこかユーモアがにじみ出る斎藤茂吉なのである。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。