紫式部のライバルといわれることが多い、清少納言。清少納言から連想するものを挙げるとしたら、『枕草子』でしょうか。清少納言や『枕草子』の名前や概要は知っていても、じつはまだ知らないことがたくさんあるのかもしれません。古典の授業で勉強したけど、忘れてしまった人もいらっしゃるかもしれませんね。

あらためて日本文化を学び直すとしたら、なじみやすいところから考えると、『小倉百人一首』でしょうか? まずは、小倉百人一首から日本文化を垣間見てみましょう。本記事では、清少納言の百人一首について、ご紹介いたします。

清少納言『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)

目次
清少納言の百人一首「夜をこめて」の全文と現代語訳
この和歌が誕生した背景
清少納言が詠んだ有名な和歌は?
清少納言、ゆかりの地
最後に

清少納言の百人一首「夜をこめて〜」の全文と現代語訳

紫式部とともに、平安時代中期の二大作家として知られている清少納言。特に、彼女の代表作である『枕草子』は教科書にも載っているため、覚えているという方も多いのではないでしょうか? 鋭い観察眼と独特な感性によって記された『枕草子』は、現在にいたるまで読み継がれています。

藤原道隆(みちたか)の娘・定子(ていし)に仕え、生涯を通して忠誠を誓った清少納言の和歌は、『小倉百人一首』にもまとめられています。それが、

夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

という和歌です。

『小倉百人一首』の中では62番目にまとめられている、清少納言の和歌。現代語訳すると、「夜がまだ明けないうちに鶏の鳴き真似で騙そうとしても、函谷関(かんこくかん)ならともかく、逢坂の関は決して通さないでしょう。(騙そうとしても、決してあなたと逢いませんよ)」という意味になります。

清少納言
清少納言『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)

この和歌が誕生した背景

中国の故事を引用した、「夜をこめて〜」の和歌。これは、平安時代中期の公卿であり、三蹟(さんせき、優れた能書家のこと)の一人にも数えられている藤原行成(ゆきなり)に対して詠んだ歌であると考えられています。

早くに親族を亡くし、不遇の幼少期を過ごすも、24歳という若さで蔵人頭に任命され、異例の大出世を果たした行成。その後、氏長者となった藤原道長から重用されますが、行成は清少納言とも親交があったとされます。

ある夜、清少納言と談笑していた行成は、宮中に用事があるからと早々に帰ってしまったそうです。翌朝、「鶏の鳴き声に急かされて帰ったのです」と言い訳の文を送った行成に対し、清少納言は「函谷関の故事のような鶏の鳴き真似でごまかそうとしても、そうはいきませんよ」という意味の、「夜をこめて」の歌を詠んだのです。

函谷関の故事とは、秦国に囚われてしまった孟嘗君(もうしょうくん、中国戦国時代の政治家)が、逃げるために部下に鶏の鳴き真似をさせて函谷関の関所を開かせたという話で、中国の史記に記されている逸話です。即座に史記の内容を例に挙げることができる、才気煥発な清少納言の一面を垣間見ることができるエピソードですね。

これには、学才に秀でていたとされる行成も太刀打ちできなかったのではないでしょうか?

清少納言が詠んだ有名な和歌は?

三十六歌仙(奈良時代から平安時代までを代表する、36人の優れた歌人)の一人にも数えられている清少納言ですが、どのような歌を詠んでいたのでしょうか? ここでは、清少納言が詠んだ有名な和歌について紹介します。

1:身を知らず 誰かは人を 恨みまし 契らでつらき 心なりせば

こちらは、平安時代後期から鎌倉時代前期に成立したとされる家集『清少納言集』に収められている和歌です。現代語訳すると、「身もわきまえずに、一体誰が契りを交わしていない相手のことを恨んだりするのでしょうか?(あなたに恨まれる筋合いはございません)」という意味になります。

当時は、和歌や管弦などの素養があればあるほど良いとされていたため、相手の男性にとっては、教養深い清少納言がとても魅力的に思えたのかもしれません。これは、男性からのアプローチを清少納言がはっきりと断っている歌と言えるでしょう。

この和歌からは、歯に衣着せぬ、清少納言の強気な一面を垣間見ることができます。

2:風のまに 散る淡雪の はかなくて ところどころに 降るぞわびしき

こちらも、『清少納言集』に収められている和歌で、「風に吹かれて散る淡雪のように、みんなが散り散りになって離れている今は、本当にわびしいものです」という意味です。

道長の兄・藤原道隆が栄華を極めていた頃、清少納言は道隆の娘・定子の女房として仕えていました。定子の女房には粒ぞろいの才女が集められ、清少納言は彼女たちとともに、毎日楽しく生活していたそうです。しかし、道隆が病没したことで中関白家(道隆の家系)は衰えてしまいます。

その後も、清少納言は定子に仕えましたが、長保2年(1000)に定子が亡くなり、一人取り残されてしまいました。

これは、寂しい生活を送る晩年の清少納言が、かつての仲間や楽しかった日々のことを懐かしんでいる歌のように思われ、『枕草子』にはない一面を感じさせます。

清少納言、ゆかりの地

『枕草子』の作者として広く知られている、清少納言。ここでは、清少納言のゆかりの地について紹介します。

1:清水寺

京都のパワースポットとして、世界中から観光客の集まる清水寺。1200年以上の歴史を持つ清水寺は、『枕草子』の中で何度も取り上げられています。特に、『枕草子』第231段の「さわがしきもの」では、18日の縁日の際の清水寺は、各地から大勢の人が集まって賑わっているという一文が見られます。

当時から、身分を問わず多くの人々から信仰されてきた清水寺。平安時代は観音信仰が強まっていたこともあり、紫式部や菅原孝標女(すがわらの・たかすえのむすめ)ら有名人も訪れていたそうです。京都市バスの五条坂で下車後、徒歩約10分の距離にあるので、当時のことを想像しながら巡ってみるのもいいかもしれませんね。

2:泉涌寺

月輪山(つきのわやま)の山麓に位置する泉涌寺(せんにゅうじ)。鎌倉時代の天皇・四条天皇以後、歴代皇室の菩提寺として崇敬を受けた寺です。定子が亡くなった後、清少納言は泉涌寺がある東山月輪にて晩年を過ごしたといわれています。

また、この付近には清少納言の父・清原元輔の山荘もあったとされます。そのため、泉涌寺には清少納言の「夜をこめて〜」の歌碑が残されているのです。宮廷を去った後は、寂しい生活を送っていたとされる清少納言。この場所を訪れて物思いに耽っていたのかもしれません。

最後に

今回は、清少納言の百人一首「夜をこめて〜」についてご紹介しました。和歌が詠まれた時代背景や、作者の心情について知ると、和歌の新たな一面が見えてくるようですね。本記事をきっかけに、百人一首の奥深さを感じていただければ、幸いです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
校正/吉田悦子
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)

●協力/嵯峨嵐山文華館

百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp

 

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