はじめに-片桐且元とはどんな人物だったのか?
片桐且元(かたぎり・かつもと)は、豊臣家の家臣で、賤ヶ岳の七本槍(しずがだけしちほんやり)の一人。豊臣秀吉に大変可愛がられました。ところが、大坂の陣では徳川方に付いて大坂城攻めに参加するという、複雑な人生を歩みます。且元は一体どのような人物だったのでしょうか。史実をもとに紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、茶々と家康の対立で胃を痛める豊臣家直参(演:川島潤哉)として描かれます。
目次
はじめに−片桐且元とはどんな人物だったのか?
片桐且元が生きた時代
片桐且元の足跡と主な出来事
まとめ
片桐且元が生きた時代
片桐且元は、浅井長政(あざい・ながまさ)の小谷(おだに)城落城、関ヶ原の戦い、大坂冬・夏の陣など、戦国時代末期の大きな戦を経験しています。そして度重なる戦いの末、豊臣家が滅亡し、徳川家の天下が決定的になる同時期に、且元はその生涯を終えました。
片桐且元の足跡と主な出来事
片桐且元は、弘治2年(1556)生まれ、慶長20年(1615)に没しています。その生涯を主な出来事とともに辿ってみましょう。
浅井長政の小谷城が落城し秀吉に仕官
片桐且元は、弘治2年(1556)、浅井長政の支配下にある国人領主・片桐直貞(なおさだ)の長男として近江国に生まれました。天正元年(1573)9月1日、織田信長による攻撃で小谷城陥落。主君・長政は自害。
このとき、且元17歳。陥落前日の日付で、長政より父・直定宛てに、共に籠城する忠義に感謝する手紙が現存していることから、且元自身も、お市の方や浅井三姉妹(茶々・初・江)とともに落城を経験したと考えられています。少なくともすぐ間近で、この悲劇を見ていたことでしょう。
その後、浅井に代わって長浜と北近江三郡の領主となった、豊臣秀吉(当時、羽柴秀吉)に且元は仕官しました。
賤ヶ岳七本槍の一人として頭角を現す
秀吉の主君・織田信長が本能寺の変に倒れ、天正11年(1583)、秀吉と柴田勝家(しばた・かついえ)との間で、信長の後継者争いに端を発した「賤ヶ岳の戦い」が勃発。秀吉が勝利し、天下統一の足がかりとしました。勝家は、長政亡きあと勝家に嫁いでいたお市の方と共に自害。浅井三姉妹は秀吉に保護されました。
この戦いで特に活躍した7人の武将は、“賤ヶ岳の七本槍”と称されました。加藤清正(かとう・きよまさ)、福島正則(ふくしま・まさのり)、加藤嘉明(かとう・よしあき)、平野長泰(ひらの・ながやす)、脇坂安治(わきざか・やすはる)、糟屋武則(かすや・たけのり)、そして且元です。
且元は摂津国内に3000石を与えられました。天正12年(1584)6月、小牧・長久手の戦いに従軍。天正14年(1586)には豊臣姓を下賜され、同年、方広寺大仏殿(京の大仏)の建設で作事奉行を務めます(後年の再建工事でも、且元が作事奉行を務めています)。
以降、検地や街道整備などを担った且元。文禄の役(朝鮮出兵)でも、戦に加わりながら軍船の調達・街道整備・物資の補給などに尽力します。文禄4年(1595)、播磨国内などに5800石を加増され、1万石の大名に。さらに秀吉の息子・秀頼の補佐役に選ばれました。
【豊臣家重臣でありながら家康に急接近。次ページに続きます】