はじめに-片桐且元とはどんな人物だったのか?

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する片桐且元(かたぎり・かつもと、演:長友郁真)は、豊臣秀吉(演:池松壮亮)に仕え、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで「七本槍」の一人として名を知られた武将です。豊臣秀吉に大変可愛がられました。ところが、大坂の陣では徳川方に付いて大坂城攻めに参加するという、複雑な人生を歩みます。

『豊臣兄弟!』では、有能な家臣の選抜試験の最終試験に残る人物として描かれます。

片桐且元
片桐且元

片桐且元が生きた時代

片桐且元は、浅井長政(あざい・ながまさ)の小谷落城、関ヶ原の戦い、大坂冬・夏の陣など、戦国時代末期の大きな戦を経験しています。そして度重なる戦いの末、豊臣家は滅亡。

徳川家の天下が決定的となる時期に、且元はその生涯を終えました。

片桐且元の足跡と主な出来事

片桐且元は、弘治2年(1556)生まれ、慶長20年(1615)に没しています。その生涯を主な出来事とともに辿ってみましょう。

浅井長政の小谷城が落城し秀吉に仕官

片桐且元は、弘治2年(1556)、浅井長政の支配下にある国人領主・片桐直貞(かたぎり・なおさだ)の長男として近江国(現在の滋賀県)に生まれました。天正元年(1573)9月1日、織田信長による攻撃で小谷城は陥落。主君・長政は自害しました。

このとき、且元は17歳。陥落前日の日付で、長政より父・直貞宛てに、共に籠城する忠義に感謝する手紙が現存していることから、且元自身も、市や浅井三姉妹(茶々・初・江)とともに落城を経験したと考えられています。少なくともすぐ間近で、この悲劇を見ていたことでしょう。

その後、浅井に代わって長浜と北近江三郡の領主となった、豊臣秀吉(当時、羽柴秀吉)に且元は仕官しました。

小谷城
史跡小谷城跡

賤ヶ岳七本槍の一人として頭角を現す

秀吉の主君・織田信長が本能寺の変に倒れ、天正11年(1583)、秀吉と柴田勝家との間で、信長の後継者争いに端を発した「賤ヶ岳の戦い」が勃発。秀吉が勝利し、天下統一の足がかりとしました。勝家は、長政亡きあと勝家に嫁いでいた市と共に自害。浅井三姉妹は秀吉に保護されました。

この戦いで特に活躍した7人の武将は、「賤ヶ岳の七本槍」と称されました。加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則(かすや・たけのり)、そして且元です。

且元は摂津国内に3,000石を与えられました。

七本槍古戦場賤ヶ岳
七本槍古戦場賤ヶ岳

小牧・長久手、小田原、さらに朝鮮へ

天正12年(1584)6月、小牧・長久手の戦いに従軍。また、天正15年(1587)の九州征伐でも本陣の後備に位置し、天正18年(1590)の小田原征伐では弟の貞隆とともに本陣脇備に加わっています。

さらに、天正18年(1590)から文禄年間にかけて、諸国の検地奉行、京都方広寺大仏や伏見・大坂の作事奉行なども務めました。

文禄元年(1592)には朝鮮へも渡海しています。

文禄4年(1595)には、賤ヶ岳の追賞として播磨国(現在の兵庫県南部)内などに5,800石を加増され、合計1万石の大名となりました。出世の歩みは決して早いわけではありませんが、長く秀吉に仕え、着実に地位を固めた人物だといえるでしょう。

秀吉の死後、秀頼の「老臣」ではなく「後見」へ

慶長3年(1598)、秀吉が没する直前の8月13日、且元は石田正澄らとともに五奉行へ誓紙を出し、豊臣秀頼付の奉公人、特に側近たちを監察する立場に置かれました。

秀頼の使者としての上洛や駿府参行、豊国祭や諸寺社修造の奉行、寺社領寄進の奉行など、秀頼のもとでの活動は数多く確認できます。しかし、『国史大辞典』(吉川弘文館)は、且元を単純に「秀頼の老臣」とみるだけでは不十分だと指摘しています。家康の指揮下にある「後見」、あるいは吏僚としての側面が強かったというのです。

この見方は、且元という人物を理解する上で欠かせません。彼は豊臣家の家臣でありながら、同時に家康との関係を深め、政権移行の中で独特の立ち位置にいたと考えられます。

関ヶ原の戦い後、家康の信任を得る

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いののちも、且元は家康の信任を失いませんでした。『日本大百科全書』(小学館)には、「大御所様上意の通り万事残る所なし」といわれるほど家康のために尽くしたとあります。慶長6年(1601)には、家康から大和(現在の奈良県)平群郡で1万8,000石を加増され、合計2万8,000石となり、竜田を居所としました。

これによって、且元は大坂城中の筆頭人としての地位を固めたとされます。豊臣家に仕えながら、家康の信任を背景に動く。この二重の立場こそ、片桐且元の難しさであり、また後世の評価が分かれる理由でもあるのでしょう。

方広寺鐘銘事件と大坂城退去

慶長19年(1614)、方広寺大仏の鐘銘事件が起こります。この事件をめぐって、片桐且元は豊臣方と徳川方の交渉の主担者となりました。しかし『日本大百科全書』(小学館)によれば、家康に翻弄されたあげく、大坂方からは関東の間者、つまりスパイのように疑われるようになります。

同年10月1日、且元は淀殿から疑われて大坂城を退去し、摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)茨木城へ入りました。ここが且元の生涯最大の転機だったといえるでしょう。豊臣家を支える役割を担ってきた人物が、ついに大坂城を去ることになったのです。

ただし、この前後の且元の行動については、後世さまざまな憶測が加えられてきましたが、確実なことはわかっていません。

大坂の陣では徳川方に立つも、豊臣滅亡後に死去

大坂冬の陣・夏の陣では、且元は徳川方として大坂城攻めに加わりました。

しかし、豊臣滅亡後の且元は、栄華を享受したわけではありませんでした。『日本大百科全書』(小学館)によれば、戦後に4万石を領することになったものの、豊臣氏滅亡から20日後、悶々のうちに病死したとされます。享年60歳でした。

豊臣家のために尽くした時期も長かっただけに、その最期には複雑な思いがあったのかもしれません。

まとめ

豊臣のため徳川との間を必死に取り持とうとした且元。それこそ胃の痛くなるような毎日だったことでしょう。忠臣か裏切り者か……。こたえは且元の心の内にしかないのかもしれません。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki

肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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