豊臣家重臣でありながら家康に急接近
秀吉が没し、関ヶ原の戦いにおいて且元は当然豊臣方に付きますが、勝負が決すると、いち早く娘を家康のもとに人質に出します。家康も且元を重要視し、1万8000石を加増。且元は2万8000石となり、大和の竜田(たつた)城を居城としました。
また、堀秀政(ほり・ひでまさ)と共に豊臣宗家の家老に取り立てられます。且元は幼い秀頼の代わりに家康が政治代行することを認め、「大坂奉行」と呼ばれました。秀政が没したあとは、唯一の家老として豊臣家の財政や外交を取り仕切ります。
慶長16年(1611)、朝廷の行事に参加するため駿府城から4年ぶりに上洛した家康は、秀頼に二条城での会見を要請。秀頼の母・淀殿(茶々)は「家康が大坂城へ来るべき」と難を示しますが、且元が「関東と不和になる」と説得し会見を実現させました。その際に、吉凶を占ったクジで淀殿が大凶を引くと、こっそり吉に書き直させたという逸話も。こうして実現した3月28日の二条城会見には、且元も同席しました。
且元はスパイ!? 方広寺鐘銘事件
まさに東西の板挟み状態の且元は、慶長19年(1614)、「方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件」に巻き込まれてしまいます。方広寺大仏殿と大仏は且元が奉行を務めて一度は完成しましたが、地震や火災で失われたままでした。その再建がなされ、梵鐘も完成。しかし、この鐘の銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」が徳川を分断し、豊臣家の繁栄を喜ぶものだと家康は激怒します。
且元は家康に直接釈明しようとしてかなわず、家康家臣の本多正純(ほんだ・まさずみ)と金地院崇伝(こんちいん・すうでん)に面会。そこで国替え、または淀殿か秀頼の江戸下向のいずれかに応ぜよと強要され、それを伝えるものの豊臣方としては到底受け入れられるものではありません。
あげくに且元は徳川方と内通していると疑われ、秀頼・淀殿らは且元の暗殺まで目論見ます。それを知った且元は屋敷に籠城。10月1日には一族、家臣を引き連れて大坂城を脱出し、弟・貞隆(さだたか)の茨木(いばらき)城へ入りました。豊臣家は分断され、家康は大坂城攻めを決めたといわれています。
豊臣秀頼と淀殿の助命を願う
この「大坂冬の陣」では、且元は無情にも先鋒を命じられます。また、大坂城包囲網を命じられ、12月16日、家康の砲術方を率いて本丸近くへ砲撃。豊臣方は徳川からの和議を受け入れ、大坂の陣は一旦、終結しました。
且元は隠居を申し出るも認められず、続く「大坂夏の陣」にも参戦。豊臣家家臣の大野治長(おおの・はるなが)から秀頼・淀殿の除名嘆願の依頼を受け秀忠に伝達しますが、却下され、豊臣家は滅亡しました。
夏の陣から間もなく、且元は京の屋敷で没しました。病だったとも、自害したともいわれています。
まとめ
豊臣のため徳川との間を必死に取り持とうとした且元。それこそ胃の痛くなるような毎日だったことでしょう。忠臣か裏切り者か……。こたえは且元の心の内にしかないのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
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引用・参考文献/
『日本大百科全書』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)