はじめに-藤堂高虎とはどんな人物だったのか?

藤堂高虎(とうどう・たかとら)とは、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将です。北近江(=現在の滋賀県)の戦国大名・浅井長政(あざい・ながまさ)をはじめ、数多くの武将に仕えた高虎。秀吉の弟・秀長に仕えたことで、後に秀吉の家臣に抜擢されることとなります。

秀吉の死後は、家康に仕えるようになり、命がけで彼を支えました。家康は晩年、最も信頼できる家臣の一人に、高虎の名を挙げたと言われています。責任感が強く、誠実な性格というイメージがありますが、実際の藤堂高虎はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、秀吉のもとで活躍し、天下人・家康の流れを作った知将(演:網川凛)として描かれます。

目次
はじめに―藤堂高虎とはどんな人物だったのか?
藤堂高虎が生きた時代
藤堂高虎の足跡と主な出来事
まとめ

藤堂高虎が生きた時代

藤堂高虎は、弘治2年(1556)に生まれます。高虎が生まれた頃、尾張国(=現在の愛知県)の信長が、武将として力をつけだしていました。そして、高虎がまだ幼い頃に、信長と北近江の浅井長政が同盟を結びます。

高虎は、初めて長政に仕え、武将としての道を歩むこととなったのです。

藤堂高虎像(個人蔵)

藤堂高虎の足跡と主な出来事

藤堂高虎は、弘治2年(1556)に生まれ、寛永7年(1630)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

浅井長政に仕え「姉川の戦い」で功績をあげる

藤堂高虎は、弘治2年(1556)、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)の土豪・藤堂虎高(とらたか)の子として生まれます。はじめは「与吉(よきち)」という名前でしたが、高虎に改名しています。

15歳の頃に、近江小谷城の城主・浅井長政に仕えるようになった高虎。元亀元年(1570)の「姉川の戦い」で初陣を飾り、奮戦しました。初陣ながら戦功を立てた高虎ですが、その後まもなく出奔することとなります。高虎が同輩を殺害したことが理由であると言われていますが、真相は分かっていません。

以後、高虎は複数人の主君に仕えることとなります。天正4年(1576)、21歳の時に秀吉の弟・羽柴(豊臣)秀長に仕えるようになってから、ようやく腰を落ち着けました。

秀長、秀吉に仕える

主君のもとを転々とした後、秀長に仕えるようになった高虎。仕え始めた頃の禄高はわずか300石でしたが、天正11年(1583)の「賤ケ岳の戦い」や、天正13年(1585)の「雑賀・根来攻め」などで戦功を立て、大幅に加増されることとなります。

天正15年(1587)の「九州征伐」の際には、2万石の領土を有する大名へと成長しました。武将として頭角を現した高虎でしたが、天正19年(1591)、主君・秀長が病没してしまいます。その後、秀長の猶子・秀保(ひでやす)に仕えますが、彼もまもなく病没してしまったのです。

居場所がなくなった高虎は、剃髪して高野山に籠ってしまいます。武将としての道が完全に断たれたように思えましたが、その後、直臣になってほしいと秀吉から声をかけられます。

秀吉の懇望により、彼の直臣となった高虎。文禄4年(1595)、伊予国(現在の愛媛県)に7万石を与えられ、宇和島城(=現在の愛媛県宇和島市にあった城)の城主となりました。慶長2年(1597)の「慶長の役」では、水軍を率いて朝鮮に渡海し、朝鮮水軍を全滅させた功績を称えられ、さらに1万石加増されます。

『朝鮮征伐大評定ノ図』(月岡芳年画) 
左端に描かれているのが、藤堂高虎。

高虎は、身長が約190センチあったと言われています。秀吉は、才覚があるだけでなく、体格にも恵まれていた高虎のことを放っておけなかったのかもしれません。

家康に接近、数々の功績をあげる。次ページに続きます

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