はじめに-夏目広次とはどんな人物だったのか
夏目広次(ひろつぐ)は、徳川家康の譜代の家臣として活躍しました。中でも、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで、家康の影武者として討ち死にしたことは有名なエピソードとして広く知られています。
そんな広次ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、控えめな性格ゆえに個性的な家臣団の中では目立ちませんが、やがて三方ヶ原の戦いで大きな使命を果たす人物(演:甲本雅裕)として描かれます。武骨な部将が多い中で、家康を実務の面で支えます。
目次
はじめに-夏目広次とはどんな人物だったのか
夏目広次が生きた時代
夏目広次の足跡と主な出来事
まとめ
夏目広次が生きた時代
夏目広次が生まれたころには、戦国時代が始まって半世紀ほどたっていました。戦国大名同士の争いは激しくなる一方であり、まだまだ全国統一には程遠い状況だったのです。夏目広次は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康ら三英傑よりも約20年早くに生まれています。
夏目広次の足跡と主な出来事
広次は、永正15年(1518)に生まれ、元亀3年(1572)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
生誕
永正15年(1518)、広次は夏目吉久の子として三河で生まれました。通称は次郎右衛門で、本名は吉信。夏目氏は信濃発祥の清和源氏満快 (みつよし) 流が主な族で、その支流がのちに三河に移り、松平家の譜代の家臣になったと言われています。あの有名な明治の文豪・夏目漱石は広次の子孫だとも伝わっています。
永禄4年(1561)、広次は三河の長沢城攻略で軍功をあげます。永禄5年(1562)の八幡村城攻撃の際、家康が総崩れになった時には、広次は殿(しんがり)を務めて、国府までの間、いくども踏みとどまり奮戦。後に、家康から功績を評価され、備前長光作の脇差を賜ることになりました。
一向一揆に加わり、家康に歯向かう
家康に認められた広次ですが、永禄6年(1563)に三河で一向一揆が起こると、一揆側に加担し、家康に敵対することになります。この時、一揆側についたのは広次だけではなく、徳川十六神将で「槍半蔵」と称された渡辺守綱も一揆側に味方しました。松平氏の家臣には、一向宗の門徒がおり、一揆側につくのは広次だけではなかったのです。門徒ではない国人衆も一揆に加わりました。
最終的に、広次は野場城で松平(深溝)伊忠に捕えられます。本来ならば、処刑されるところでしたが、伊忠の嘆願により罪を許され、再び家康に仕えることができました。以来、広次は家康に対する恩義を忘れることがなかったと言われています。
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