三方ヶ原で戦死する
元亀3年(1572)、家康が甲斐の武田信玄と激突した三方ヶ原の戦いで、家康側は完敗。このとき、広次は浜松城の留守居役を務めていましたが、家康を守るべく20騎余りを率いて出撃します。
家康を諫めて浜松城に逃がした後、自らは武田の軍勢と戦い、討ち死にすることになったのです。広次は、家康から兜と馬を借り、影武者として家康の身代わりになりました。敵に向かって「我こそは徳川家康なり」と叫んだという逸話もあります。享年55歳。
広次が戦死した場所付近には、「夏目次郎左衛門吉信の碑」という記念碑があります。
まとめ
夏目広次は、三河の一向一揆で一揆側について家康に歯向かいました。しかし、罪を許され、助けられたことの恩義を忘れず、最後は主君のために自らの命をもって忠節を尽くしたと言えます。そんな広次は、まさに「忠烈の士」でであると言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)