「荒三位」と呼ばれる粗暴な振る舞い
道雅は中関白家の嫡流として、藤原道長の勢力に対する反発心からか、粗暴で無頼な行動が目立つようになります。そのため「荒三位」というあだ名がつけられてしまいました。
万寿3年(1026)には中将の職を罷免(ひめん)され、右京権大夫に左遷されるなど、その行動は政治的な地位にも影響を及ぼしました。
歌人としての才能と活動
一方で、道雅は優れた歌人として知られていました。寛徳2年(1045)には左京大夫に復し、同年夏には八条の山荘で歌会を催しています。
また、永承2年(1047)には「左京大夫八条山庄障子和歌合」を主催するなど、文化的な活動に力を入れていました。彼の和歌は『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に7首が収録されており、その才能は高く評価されています。
「今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな」(現代語訳:今となってはもう、あなたへの思いをきっぱりと諦めてしまおうということだけを、人づてではなく、直接言う方法があってほしいものだなぁ)の和歌は、『小倉百人一首』にも選ばれています。
晩年と死去
晩年の道雅は、時勢を諦観しつつ八条の山荘に閑居し、受領階級の歌人たちと雅やかな交流を楽しんでいたとされています。天喜2年(1054)7月20日、63歳(一説には62歳)でこの世を去りました。
まとめ
藤原道雅の生涯は、平安時代中期の政治的権力闘争と文化的な華やかさの両面を映し出しているようです。中関白家の嫡流としての誇りと、藤原道長への反発から生まれた彼の行動は、時に波乱を巻き起こしました。
しかし、その一方で優れた歌才を持ち、文化人としても大きな足跡を残したともいえます。そのことは、小倉百人一首に選ばれていることからも伝わってくるでしょう。
彼の生涯は、当時の貴族社会の複雑な人間関係や権力構造を理解する上でも、貴重なものであったといえるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大事典』(吉川弘文館)
『日本人名辞典』(講談社)