近衛信尹(のぶただ)(信輔)が薩摩坊津に流されたのは、豊臣秀吉に疎んじられたからだ。五摂家筆頭近衛家の当主でありながら、二度も秀吉の本陣肥前名護屋(佐賀県唐津市)に下向して本気で朝鮮に出陣しようとするなど、公家らしからぬ言動は当時の人々にも奇異に映っていた。

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中世の海運を担った坊津

たとえば、この頃の信尹は秀吉に「武辺の奉公」を願い出て、近衛家領岡屋荘にちなんだ岡屋(おかのや)という名字を名乗っていた。興福寺多門院の僧侶英俊はその日記に、「家を捨て置かる」と記しており、「物狂」とさえ断じている。

信尹が二度目の名護屋下向の後に帰京したのが文禄2年(1594)3月であり、それから約1年後の文禄3年4月に、後陽成天皇を通じて突然の薩摩配流を申し渡された。その折りの秀吉の命令書が(文禄3年)4月12日付の朱印状である。菊亭晴季・勧修寺晴豊・中山親綱という天皇側近の有力公家に宛てて出されたものであるが、実際は天皇を介して信尹に厳命したものとみてよい。

7箇条に及ぶ命令書の第6条目に「去々年名護屋へ越され候、その子細は高麗(朝鮮国)へ太閤(秀吉)渡海せしむるにおいては、同道あるべき由申され候」とあり、秀吉の朝鮮渡海にあわせて信尹も出陣しようとしていたことがわかる。

続けて第7条目に「重ねて用意いたし、来春になり候はば、相越さるべき由申され候間、太閤右の狂気人を許容いたし候かと、上(天皇)にも思し召し候てはと存じ、名護屋へまかりくだらざるようにと、御内儀申し上げ候」と記している。つまり、秀吉としては天皇の手前もあるので種々配慮して二度目の名護屋下向がないように努めたのである。

「狂気人」とまで貶められた信尹ではあったが、かつて父・前久が越後の上杉謙信のもとに下り関東に従軍したことを知っていたからそれに倣ったまでで、まったくの正気だったに相違ない。ただし、世は父の時代とは違っていた。武家関白のもと、武家が秀吉から官位を得て公家になることがあっても、その逆は許されなかったのだ。

当時の朝廷は儀式が廃れており、五摂家のような高級公家の参内すらめったになかった。要は、戦国時代の朝廷は儀式では食えなかったのだ。そのため、関白ですら天下人に接近して所領をもらったり、家領荘園に下って直接経営を試みたりと、自家の存続に汲々としていた。信尹も積極的に秀吉に自己アピールして、武家としての岡屋家の取り立てを望んだのであろうが、秀吉の意向を読めず失敗してしまったのである。

信尹の配流先は、家領荘園薩摩島津荘だった。既に前久が天正3年と同8年に信長の命を受けて島津氏のもとに下っていたから、最南端への流刑というほど深刻なものではなかった。実際には、家司10人・小者5人・又小者10人、下々妻子10人の合計45人もの人々が同行し、人足100人、乗馬12疋が、関白豊臣秀次の計らいで用意された。堂々たる薩摩下向だったのである。

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