例年、ゴールデンウィークに満開を迎える約2600本のソメイヨシノを求めて200万人を超える観光客が訪れる弘前城。江戸時代に建造されたこの美しい城について、直木賞作家の司馬遼太郎は紀行『北のまほろば-街道をゆく』(朝日文庫)の中で、「日本七名城の一つ」とし、「この優美な近世城郭が僻陬(へきすう)の地の津軽に出現したこと自体、奇跡にちかい」と述べている。その天守は国の重要文化財に指定されており、近代前に建造されて現存する全国12天守のひとつであり、関東以北では唯一といえる貴重な建物である。
弘前城下乗橋から見る桜と天守は絶好の撮影スポットだった。 今年は、この位置から70m天守が移動している。

弘前城下乗橋から見る桜と天守は絶好の撮影スポットだった。今年は、この位置から70m天守が移動している。

弘前は、本州最北の城下町として、慶長16年(1611)の高岡城(弘前城)の築城と共に誕生した。以来400年余り、太宰治が『津軽』の中で「津軽人の魂の拠りどころ」と記した通り、様々な文化を生み出し、育んできた。 

夏のねぷたまつり、秋の岩木山お山参詣、そして、厳しい冬を乗り越えた喜び、楽しさを、そのまま具現化したかのような「弘前さくらまつり」。これらはまさに「津軽人の魂の拠りどころ」であり、弘前にしか生まれ得ない、津軽人の心のまつりなのである。特に、弘前さくらまつりは、2600本を超える満開の桜の下で、花を愛でながら酒に酔い、ずらりと建ち並ぶ約200店の出店を楽しめる。そこで多くの津軽の人々は心を解放させ、生きていく活力を取り戻していく特別なまつりなのである。

桜まつりの期間中は、約200店の出店と200万人を超える観光客で賑わう。

桜まつりの期間中は、約200店の出店と200万人を超える観光客で賑わう。

弘前さくらまつりの醍醐味のひとつが、二の丸から本丸へ渡る下乗橋(げじょうばし)の上から眺める天守の姿であることは、弘前城を訪れたことのある人すべてが感じるところだろう。雄大で秀麗な岩木山の姿を背景に、銅瓦葺独特の緑青で化粧された屋根まわりと、白亜の漆喰壁とのコントラストが満開の桜の中に浮かび上がる様は、ここでしか味わえない、まさに眼福と呼べる光景である。

その弘前城天守が、天守台の上から引き離され、曳屋(ひきや)という工法を用いて、平成27年8月16日から10月24日の約2か月をかけて天守台から西北方向へ約70m移動した。 曳屋とは、家屋などを修理する際に建物を解体せず、そのまま別の場所に移動させる工法である。そもそも、天守を曳屋した直接の原因は、その下部に積まれている石垣が外側に膨らむ「はらみ」が見られたからだ。弘前城には本丸にのみ石垣が積まれている。そのうち、本丸東側の石垣において定点観測などの結果、石積みに変位が確認されるようになり、大地震などが発生した場合、崩落する危険性があった。それゆえ、石垣は修復の必要性に迫られていたのである。

天守台石垣100年ぶりの大修理

本丸東側の石垣は、築城時の野面(のづら)積みから元禄期の切石積み、そして明治から大正にかけての近代の積みまで、各時代相に伴って様々な技術が混在している。そのうち天守台下の、明治期に崩落したものを積みなおした大正期の石積み個所と、その北側の元禄期の石積み部分において、南北100メートルほどに大きな変化が確認されている。東面では、内濠側に約1メートル石垣がせり出し、天守は北東隅で30センチメートルほど沈下していた。

幸い、天守の歪みは、天守台石垣の変位によるもので、建物自体に大きな影響のなかったことが判明したが、石垣自体の変位がこのまま進行した場合、天守台石垣を巻き込んだ崩落がおこる危険性が明らかとなったのである。

弘前市は、平成20年度に、専門家による「弘前城石垣修理委員会」を組織し、具体的に石垣修理計画の検討を開始した。その結果、平成24年度には、解体修理を行なうことと、解体修理範囲が決定し、本格的に石垣修理に着手したのである。その最初の大きな工事が、天守を本丸中ほどに移動させるという曳屋工事だった。


約4000人の市民が天守を曳く

弘前城の天守は、明治期にも一度、曳屋を経験している。天守台下の石垣が崩落したために、非常に緊急性の高い状況下で行われた曳屋であった。それに対し、今回の曳屋は、実際にはまだ石垣が崩落していない状況下で実施できたことから、工法以外のところで様々に工夫を凝らしたものとなった。

まず、天守曳屋・石垣修理用の作業スペースを確保するため、本丸と二の丸とを隔てる内濠を埋め立てたことを活用し、「弘前さくらまつり」期間に合わせて一般に開放した。

間近に見る石積みや、真下から見上げる天守など、日ごろ見ることのできない景色を30万人近い人々が味わうことができた。特に、間近に見る築石の巨大さや、外側へと大きく膨らんだ石積みの状況は、多くの人たちに強い印象を与え、石垣修理の必要性を実感するきっかけになったに違いない。

4000人の市民が天守を曳いた。号令をとるのは、ご当地キャラの たかまるくん。

4000人の市民が天守を曳いた。号令をとるのは、ご当地キャラのたかまるくん。

 
さらに、「曳屋ウィーク」と称して、弘前市内外を問わない多くの人たちにも曳屋を体験してもらう期間を設けた。参加者は、天守からのびる綱をつかみ、合図に合わせて一斉に曳く。すると、天守がわずかに動いていくというイベントである。実際の工事は、機械の力によりジャッキアップした天守を台車の上に乗せ、レールの上を動かしていくのだが、実際に人力で動かせた距離はわずか15センチではあったが、参加者はピンと張った綱に天守の重みを十二分に感じることのできた、得難い体験であったと思う。期間中、4000人近い人々が、重要文化財建造物、それも全国に数えるほどしか残っていない「現存天守」を曳くという、一生に一度あるかないかの体験を存分に味わった。


天守が元の位置に戻るのは6年後

さて、天守曳屋工事を含む弘前城本丸石垣の修理全体のスケジュールだが、今後は、天守台の発掘調査を行ないつつ、石垣の解体工事を進めていく。むろん、石垣は文化財なので、解体後の積み直しも解体前の場所に戻すことが原則である。そのため、まず石垣ひとつひとつに番付を行ない、築石を外す前に一石ごとの現状を把握する。また、解体することは、たとえ修理のためであっても、かつて積まれた古い石積みを破壊することになるから、石垣解体にあたっては、現代まで残った石垣が、いつ、どのように積まれたのかを把握するための情報を得る必要がある。いわば、解体工事は、積まれている石垣の情報を深く知ることのできるまたとない機会であり、その調査が、その後の積直しに関する貴重な情報を収集することにもつながるのである。

解体工事は平成30年度まで見込んでおり、以後、天守台下を中心とした第Ⅰ工区を平成32年度までに積み直しし、翌年平成33年度に天守を天守台まで曳き戻す工事を実施する予定だ。石垣修理は引き続き行なわれ、すべて修理が終わるのは平成36年度の予定である。もっとも、このスケジュールは、あくまでも現段階の希望的なものに過ぎない。

石垣は、築石などの表面に見える石材、裏込めと呼ばれる栗石や砂利層からなる層と、さらにその背後の盛土等の基盤層から形作られる構造体である。ゆえに、石垣が「はらむ」ことの原因のひとつには、石垣の背面構造での不具合が考えられるのであり、実際に「解体してみなければわからない」のが本音である。今後の解体調査の成果によっては、積み直しの工法等に大きな影響を与えることも考えられることはもちろん、石垣背面に江戸時代等の構築物等が隠れていた場合には、丁寧な調査と慎重な工事を迫られることになる。

拙速に陥ることなく、しっかりとした調査を実施し、その成果の上で解体・積み直しを行ない、平成の大修理で積み直す石垣を、200年、300年経っても崩れることのない郷土の誇りとしたいと弘前市は考えている。

なお、平成27年は曳屋イベントを実施しただけでなく、様々なイベントが弘前城内で繰り広げられた。弘前市は、今後も、「魅せる工事」を方針として、弘前さくらまつり期間での工事の公開や、伝統的な石垣構築技術に直に触れられるよう、石曳きや石割りの実演・体験などを企画し、石垣に関る本質的価値を理解する機会を提供していきたいと考えている。

次回は、「歴史学者を驚嘆させた城下町・弘前の謎」に迫ってみたい。

文/小石川透(弘前市文化財課)

 

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