文/田中昭三
奈良の東大寺二月堂で3月1日から2週間にわたって行なわれる、1250余年という長い歴史を持つ仏教行事「お水取り」。連綿と受け継がれてきた、春の訪れを告げる奈良の風物詩でもあるこの一大行事は、いかなるものなのか。
入江泰吉が撮影した写真とともに、世界的にも希有な仏教行事の謎を探ってみたい。
「お水取り」は昔からの作法やタブーが今もしっかり守られている。
まずは食事について。江戸時代前の天文9年(1540)に定められた『二月堂物忌令(にがつどうものいみれい)』という本に「蒜三七日」という記述がある。蒜(ひる)というのは、ネギやニンニクなど食用となるユリ科の植物こと。それを食べると37日間、二月堂に上がれない、という意味である。ということは、東大寺の僧侶たちは行(ぎょう)に入るかなり前から食事に注意を払っているのである。
「兎十四日」、「狸二十一日」など動物も記載されているので、昔の食事は徹底した精進料理でもなさそうである。昔の僧侶はタヌキも食べていたのだろう。さらに「猪三十五日」、「鹿百日」とも記されている。シカがとりわけ長いのは、東大寺の隣にある春日大社の神獣だからだろうか。ちなみに、今は動物を食すのは一切禁止である。
それぞれ日数に違いがあるのはなぜか東大寺に確認したのだが、今ではよくわからないという。
これらのタブーは、「お水取り」に参加する僧侶、練行衆(れんぎょうしゅう)だけの決まりではない。寺の関係者はもとより、家族全員が気を遣う。うっかりタブーとされる食材を食事に使ってしまったら、その年の練行衆になれないからだ。
練行衆は「お水取り」の期間中、食堂(じきどう)で揃って食事をする。各自の大鉢にはご飯が盛られる。今はひとり5合。昔は1升もあり、食べきれないので童子やお手伝いさんに分けたという。しゃもじは自分の椀にご飯を盛った後、大鉢に突き立てておく。ちなみに戦時中はひとり3合だったので、突き立てたしゃもじがすぐに倒れてしまったという。仏に仕える身とはいえ、なんとも悲しい話である。
練行衆は昼食を済ませた後、夜中に行(ぎょう)が終わるまで何も口にできない。水も禁止である。繰り返し経を唱えたり動き回ったりするので、強烈に喉がかわくという。深夜に下堂すると、夜食が用意されている。ゴボという粥だが、なぜゴボと呼ぶのかもわからない。
こうした隠語のような言葉が使われるようになったのは、鎌倉時代くらいまでさかのぼるという。もはや言葉が記号化しているといえる。
気をつけなければならないのは、参拝客の差し入れである。卵は精進料理に使えない。従って、卵を使った洋菓子も口にしてはいけない。和菓子やチョコレートは問題なしとのことだが、行の期間中はお茶受けひとつにも充分気を遣わねばならないのである。
忌服(喪に服すこと)についても厳しく定められている。親が亡くなったら49日間は家で喪に服し、忌服期間は1年。該当者はもちろん「お水取り」に参加できない。
練行衆とそれぞれの役割は、東大寺開山の良弁(ろうべん)が亡くなった日の12月16日に発表される。もしそれ以後に身内に不幸があれば、練行衆の役を降りなければならない。本行の期間中でも同様で、その際は代役なしで行が進められる。
3月15日の明け方3時過ぎ、2週間にわたる行が無事終了すると、練行衆たちは心の底からホッとするという。「お水取りが終わると春が来る」という決まり文句は、練行衆への感謝の言葉でもあるのだ。
※入江泰吉(1905~1992)・・・戦後一貫して奈良の仏像、古社寺、風景などを撮影。昭和21年から20余年、「お水取り」を撮り続けた。『古色大和路』『萬葉大和路』『花大和』の三部作で菊池寛賞受賞。勲四等瑞宝章、仏教伝道文化賞などを受賞。水門町の旧宅が公開されている。
文/田中昭三
京都大学文学部卒業。編集者を経てフリーに。日本の伝統文化の取材・執筆にあたる。『サライの「日本庭園完全ガイド』(小学館)、『入江泰吉と歩く大和路仏像巡礼』(ウエッジ)、『江戸東京の庭園散歩』(JTBパブリッシング)ほか。