文・写真/大井美紗子(海外書き人クラブ/アメリカ在住ライター)

2020年3月に早川書房から発売されるや否や、話題を集める『ザリガニの鳴くところ』(ディーリア・オーエンズ 著/友廣純 訳)。舞台はアメリカ南部、ノースカロライナ州の湿地帯である。動物学者でもある著者オーエンズが描く湿地の情景は真に迫り、ページをめくるほどに、アメリカ南部特有の湿度の高い空気がべたりと肌にまとわりついてくるようである。

アメリカ南部の水辺は生き物の宝庫

アメリカ南部の水辺は生き物の宝庫

自然風景に加えて、もうひとつ生き生きと描かれているものがある。アメリカ南部の料理だ。焼き立てのビスケット、ピメントチーズのサンドイッチ、ペカンナッツのパイ──。とりわけ、本書の冒頭から繰り返し登場する「トウモロコシ粥」に心惹かれた方も多いのではないだろうか。

■アメリカ南部民のコンフォートフード

トウモロコシ粥、原文でgrits(グリッツ)と表記されるそれは、アメリカ南部の食卓に欠かせない食べ物である。子どものころから食べ慣れていてお腹も心も満たしてくれるような食事のことをコンフォートフード(comfort food)と言い表すが、グリッツはまさにアメリカ南部民にとってのコンフォートフードといえる。ダイナー、レストラン、学校のカフェテリア──鍋と火口がある場所なら大抵どこでもグリッツを出している。もちろん家庭でも作るのだが、南部出身である筆者の配偶者などは「グリッツはダイナーの大鍋でぐつぐつ煮込まれていないと物足りない」という。

南部民にとってはかように身近な食べ物だが、それ以外の地域ではなかなかお目にかかれない。筆者は南部アラバマ州在住だが、遥か北西のワシントン州に住んでいたとき、小売店で本物のグリッツを見たことは一度もなかった。まれに全国チェーンのスーパーマーケットでインスタント商品に出くわし、小躍りしていたくらいだ。インスタントと本来のグリッツは、たとえるなら乾麺と生麺くらい風味が違うのだが。

南部以外ではなかなかお目にかかれないグリッツ。これはインスタント商品

南部以外ではなかなかお目にかかれないグリッツ。これはインスタント商品

■ざらざらで淡泊、何かを足さないと食べられない

このグリッツ、「トウモロコシ粥」といっても、日本で食べられている甘いトウモロコシを想像すると肩透かしを食らう。トウモロコシのような甘みは無いに等しいからだ。食感はというと、砂のようにざらついている。グリッツの語源は古語の“grytt”(ざらざらした食べ物)だ。乾燥したトウモロコシを粗く挽いた粉であり、かつては粉をふるいにかけ、下に落ちた粉をコーンミール、ふるいに残った粒をグリッツと呼んでいたそうだ。ふるいの目を通らないほど、粒子が粗いのである。

南部の人たちも、コンフォートフードとはいえ、このトウモロコシ粉を単体で食べることはまずない。エビやソーセージ、牛肉やグレイビーを合わせてメインディッシュにしたり、卵を添えたり、牛乳で煮込んだり、少なくとも塩やバター、サワークリームなどを加えて風味付けをする。

これがトウモロコシ粥。筆者の住むアラバマ州では白トウモロコシ製が主流なので色が白いのだが、『ザリガニの鳴くところ』では「黄トウモロコシ」となっている

これがトウモロコシ粥。筆者の住むアラバマ州では白トウモロコシ製が主流なので色が白いのだが、『ザリガニの鳴くところ』では「黄トウモロコシ」となっている

粥だけで食べるのは味気ないので、チェダーチーズを散らしたり、サワークリームを加えたりすることが多い

粥だけで食べるのは味気ないので、チェダーチーズを散らしたり、サワークリームを加えたりすることが多い

チーズや卵を添えて朝食にとることが多いが、ソーセージなどを付ければランチのメインディッシュにもなる

チーズや卵を添えて朝食にとることが多いが、ソーセージなどを付ければランチのメインディッシュにもなる

■主人公の自立を映す鏡に

ざらざらで淡泊、そのまま食べるのはなかなか厳しいトウモロコシ粥を、『ザリガニの鳴くところ』の主人公カイアは粥単体で食べていた。それだけ貧しかったのだ。いや、「貧しかった」だけでは言葉が足りないかもしれない。カイアの父はわずかな障害者手当で食いつなぐ退役軍人。アルコール中毒で家族に暴力を振るい、最初は母が、やがて4人の姉と兄が、次々と家を去ってしまう。父のもとにひとり残された6歳のカイアは、半ばネグレクト状態で日々の食事を作る。トウモロコシ粉は、そんな極貧状態でも手に入る最低の食糧だった。

カイアが当初作っていたのは、≪お湯で煮ただけのトウモロコシ粉≫で、≪塩がなかったので塩味のクラッカーを混ぜて食べていた≫。塩さえ手に入らない状態で、命をつないでくれたのがトウモロコシ粉だった。カイアは≪トウモロコシ粉のない生活なんて想像できない≫とまでいう。

塩味のクラッカー(ソルティン・クラッカー)も、アメリカ料理に欠かせない食べ物。砕いてスープなどに入れる。ダイナーやカフェでは個包装されたクラッカーを事実上無料でもらうことができるため、カイアと父はポケットに詰めて持ち帰っていた

塩味のクラッカー(ソルティン・クラッカー)も、アメリカ料理に欠かせない食べ物。砕いてスープなどに入れる。ダイナーやカフェでは個包装されたクラッカーを事実上無料でもらうことができるため、カイアと父はポケットに詰めて持ち帰っていた

やがてカイアは、トウモロコシ粉にラード(バターより安価)を加えたり、家の前で拾った貝をつぶして入れたりといった方法を編み出すようになる。突然消えてしまった母さんの手つきを思い出しながら見よう見まねで作っていたトウモロコシ粥に、自分なりの工夫を加えていくのだ。

トウモロコシ粥を作るのは案外難しい。沸騰したお湯(または牛乳)に粉を加えて作るのだが、こまめにかき混ぜないとすぐダマになってしまう。カイアも初めての粥づくりは失敗してしまった

トウモロコシ粥を作るのは案外難しい。沸騰したお湯(または牛乳)に粉を加えて作るのだが、こまめにかき混ぜないとすぐダマになってしまう。カイアも初めての粥づくりは失敗してしまった

暮らしぶりもだんだん上向きになり、トウモロコシ粉をお湯でなく牛乳で煮たり、スクランブルエッグやビスケットを添えたりすることができるようになる。後半部では、≪毎日トウモロコシ粉ばかり食べる生活ともお別れできるだろう≫とさえ思えるようになる。着々と豪華に、おいしそうになっていくトウモロコシ粥は、カイアの精神的・経済的な自立を映す鏡なのだ。

* * *

『ザリガニの鳴くところ』は、すでに多くの人が述べているように、フーダニットのミステリの形を取りつつ、アメリカ南部の風土に親しむノンフィクションのようにも、アメリカの分断を知る社会派小説としても読める。何より、主人公カイアの成長譚としての側面が強い。そのカイアの成長ぶりは、まるでページの間からぐつぐつと音が聞こえてきそうなトウモロコシ粥によって、克明に描き出されている。

【書籍情報】
『ザリガニの鳴くところ』ディーリア・オーエンズ 著/友廣純 訳 早川書房 刊

文・写真/大井美紗子(アメリカ在住ライター)
アメリカ南部・アラバマ州在住。日本の出版社で単行本の編集者を務めた後、2015年渡米。AERA dot.にて連載中。ライティングのほかに英日翻訳も手掛ける。海外書き人クラブ(http://www.kaigaikakibito.com/)所属。

 

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