文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
今年は日本とオーストリア友好150周年ということで、さまざまな美術展が開かれています。黄金色のキャンバスに、恍惚した表情で抱き合う男女を描いた「キス」で有名なグスタフ・クリムトの絵画は、世界中の美術ファンを魅了しています。
そんなクリムトが毎年夏を過ごしたアッター湖は、オーストリアの湖水地方、アルプスに抱かれたザルツカンマーグート地方にあります。
風光明媚なハルシュタットや、サウンド・オブ・ミュージックで知られるザルツブルクと比べても、観光客が少なく、もっぱらオーストリア人の隠れた避暑地として知られるアッター湖ですが、ここでは音楽家グスタフ・マーラーや、画家グスタフ・クリムトが避暑に訪れ、精力的に制作活動を行っていたことでも知られています。
マーラーは1893-96年の4年間、夏の間人里離れた小さな小屋にこもり、2つの交響曲を仕上げました。クリムトが愛人エミーリエ・フレーゲと共に、アッター湖に避暑に初めて来たのは、1900年。当時すでに人気画家だったクリムトは、都会の喧騒を逃れこの湖にやってきます。
最初は交通アクセスが良く、社交に都合の良い、湖の北西に宿をとっていたクリムトですが、ある時期から湖の南の静かな一軒家に住むようになります。ちょうどその節目となる年に、アッター湖鉄道というローカル線が開通します。
●アッター湖鉄道の歴史と今
アッター湖鉄道(旧名アッターガウ鉄道)は、ハプスブルク帝国晩年の1913年に開通しました。この地方の住民の交通の便の改善のため、たった8か月の工事で開通したこの鉄道ですが、避暑ブームもあり、アッター湖周辺に芸術家やオペラ歌手などのセレブが集まるようになります。
この路線の完成により、湖の北西部が人でにぎわいだします。ちょうどこの頃から、制作に集中したいクリムトは、避暑客を避け、湖南の田舎家で夏を過ごすようになりました。
アッター湖鉄道は、幅1メートルの狭軌道鉄道。長距離列車が停車するフェックラマルクトから、アッター湖畔の町アッターセーまで、13.4kmの道のりを走ります。
主な利用者は、現地の通勤、通学客ですが、避暑客や観光客、鉄道ファンにも利用されています。それでも、最も少ないときで、年間利用者が20万人と超過疎路線になってしまったこのローカル線。1日1km当たり40人しか利用していない計算です。それでも、木材やビールなどの地元の産物を運搬するため、廃線にされずに運行は続きました。
現在は、物資の運搬には使われていませんが、年間乗客数は29万人(一日1km辺り58人)まで増え、2016年には新型車両が導入されました。
終点のアッターセー駅でアッター湖の遊覧船とも接続していますので、ウィーンやドイツの各都市から週末旅行に避暑にやってきて、湖でゆったりした時間を過ごすこともできます。利用者数は少ないですが、この湖へのアクセス向上と、避暑客の誘致にも一役買っています。
●アッター湖鉄道に乗ってみる
ウィーンやザルツブルクからの長距離列車が停車するフェックラマルクト駅から、アッター湖鉄道に乗ってみましょう。
現在のアッター湖鉄道では、新型車両が走っていますが、取材時は古い車両もまだありましたので、今はもうない旧型車両も合わせてご紹介します。
アッター湖鉄道の新型車両の内部は、赤と白が基調となり、導入されたばかりということでピカピカです。ボンバルティア社のフレキシティという車種で、バリアフリーで環境にやさしいウィーンの新型市電と似たデザインです。
一方、旧型車両の内部は、ノスタルジー感満点です。こちらの車両は1950年ごろに製造されたもので、3台あったものはスイスとルーマニアへ買われて行ってしまったので、もうこの路線を走ることはありません。
これとは別に、1904年ごろに製造された車両が、特別イベントなどの時に走ることがあります。
車窓からの景色は、最初はあまりアルプスらしくない、なだらかな田園風景が広がっています。途中駅はもちろん無人で、アルプスの過疎線らしい雰囲気が漂っています。
アッター湖に近づいてくると、山並みが険しくなり、湖が姿を見せ始めます。
終点のアッターセー駅は車庫と兼用になっているので、ゆっくりとほかの車両を見ることもできます。
ここからは、アッター湖の遊覧船の乗り場も近く、ゆったりと観光を楽しむこともできます。この船には、この湖を愛したクリムトの絵が描かれ、クリムトゆかりの地を巡ることができるルートになっています。
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アッター湖鉄道に乗って、湖までののんびりした旅、いかがでしたでしょうか?
観光客が少なく、静けさに包まれたアッター湖。湖水の色はクリムトに、森の木の葉のさざめきはマーラーに影響を与えたことが、ここに来るとよくわかります。彼らが求めた夏の静けさを、ぜひ味わってみてください。
文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ(http://www.kaigaikakibito.com/)会員。