文・写真/田川敬子(海外書き人クラブ/スペイン在住ライター)
アイエロ・デ・マルフェリは、バレンシアの片隅に位置する小さな田舎町だ。スペインでもほとんど知られていないこの町の住民には2つの自慢がある。ひとつは、28歳で自らがハンドルを握る車で事故死した国民的人気歌手だったニノ・ブラボの出身地だということ。そして、もうひとつがあの“コカ・コーラ”の発祥地であることだというから驚く。いったい、なぜ?
小さな田舎町で産声をあげたコラの種とコカの葉を使ったシロップ
コカ・コーラといえば、世界でもっとも有名なノンアルコール飲料。アメリカ文明の象徴でもある。それがどうしてスペインのこんな寂れた田舎町で生まれたと言われているのか。コカ・コーラの原型をつくったといわれる蒸留酒製造所で話を聞いた。
迎えてくれたのは、79歳になるフアン・フアン・ミコ氏。創業者の親戚の子孫にあたり、21歳からここで働き始め、1971年に経営者となった。もう何十年も前から時が止まっているような社長室や事務室には、古い絵画や昔のタイプライターなどがアンティークグッズのごとく置かれ、独特の空気を醸し出している。
1880年、エンリック・オルティスとリカルド・サンス、バウティスタ・アパリシの3人は、自分たちの住むアイエロ・デ・マルフェリに蒸留酒製造所を立ち上げた。今のように清涼飲料水が売っている時代ではなかったので、冷たい水で割ってジュースにして飲むシロップも作っていた。そのひとつにヌエス・デ・コラ・コカという人気商品があった。薬草知識豊富な修道士の助言により、ペルー産のコーラの種とコカの葉を原料に使ったシロップだ。当時の健康ドリンクだったという。
アメリカの見本市に出展した翌年にコカ・コーラが誕生
営業の才に長けていたバウティスタ・アパリシのお陰で商売は繁盛し、1892年にはスペイン王室御用達になる。また、外国の見本市にも積極的に参加していたという。時の止まった社長室の壁には、今でも世界各地で授与されたメダルが飾られている。そこには、1885年にアメリカのフィラデルフィアで開かれた見本市に参加した際に、優れたメーカーとして授けられたメダルもある。その見本市にはヌエス・デ・コラ・コカも出品したそうだ。奇しくもその翌年にアトランタでコカ・コーラが発売開始となる。原料はヌエス・デ・コラ・コカ同様、コーラの種とコカの葉だった。
1953年にコカ・コーラがスペイン市場に進出するにあたり、こんな辺鄙な小さな田舎町に代理人がやってきた。商標と特許を買い取りに来たのだった。残念なことにその時の書類は残っていないが、わずか3~4万ペセタだったと言われている(※当時の平均年収の約2~3倍とのこと)。以来、コラ・コカという名前は使えず、シロップも作れない。その代わりに、ヌエス・デ・コラというリキュールに姿を変えて今も売られている。
これが、コカ・コーラはアイエロ・デ・マルフェリ生まれだと町の人々が胸を張る理由である。
偶然の一致なのか、コピーされたのか
スペインでもっとも古い蒸留酒製造所のひとつであるここでは、フアン氏が昔ながらの方法でおよそ30種類の蒸留酒やリキュールを作っている。鉄製の古い金庫から、2代目がレシピを書き留めた古いノートを取り出して見せてくれた。
「ほとんどここに書いてある通りだよ。違いと言えば、昔よりアルコール度数は下げ、その代わりに糖分を増やしたことだね。昔は冬の寒さが今より厳しくてね、強いアルコールが好まれたんだ」
『納税者の涙』、『完璧な愛』、『おばあちゃんのお乳』、『貴婦人のよろこび』などユーモアに富んだリキュールのネーミングも昔のまま。ヌエス・デ・コラはソーダで割るとコカ・コーラのようになるのだとか。ここの製品は一部を近くの町で売っている以外、製造所でしか買うことができない。不便な場所ながらわざわざ買いに来る人がいるので、今日まで続いている。
ヌエス・デ・コラ・コカ(Nuez de Cola Coca)とコカ・コーラ(Coca Cola)。単なる偶然の一致なのか、フィラデルフィアの見本市に来ていたアトランタの薬剤師がコピーしたのか。もう知るすべもない。ただ、ヌエス・デ・コラ・コカがコカ・コーラよりも前に商品化されていた。それだけは間違いのない事実である。
Destilerías Ayelo Juan Juan Micó
Plaça del Palau, 6, 46812 Aielo de Malferit, Valencia Spain
文・写真/田川敬子(スペイン在住)
2002年よりスペイン在住。オリーブオイル専門家としてスペインと日本で活動するかたわら、ライターとしてスペイン情報も発信。海外書き人クラブ所属(http://www.kaigaikakibito.com/)。