瀬戸内の室町時代遺産を後にした私たちは、程近い「西日光」に参拝した。といっても、日光東照宮に関係する寺院ではない。どうして、そのような別称が浸透しているのかというと、陽明門とそっくりな孝養門があるからだ。
対岸の愛媛県新居浜市出身の筆者には、耕三寺(こうさんじ)という正式名称よりも「西日光」でピンとくるのである。今は昔、高度経済成長期、国鉄時代の観光キャンペーンによって、この寺も瀬戸内海の名所となって多くの観光客が訪れた。かく言う筆者も、確か小学校5年生の夏休みに家族旅行で訪れた記憶がある。
当寺は、浄土真宗本願寺派に属し、山号を潮声山と称す、昭和11年から伽藍の建立が始められたかなり新しい寺院である。先述の陽明門を始め、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並ぶ。そうは言っても、山門・本堂をはじめ15もの建造物が国の登録有形文化財として登録されており、仏像、書画、茶道具などの美術品・文化財を多数所蔵し、寺全体が本格的な博物館施設となっている。
私たちは、山門から本殿の潮聲閣めざして歩んだ。潮聲閣とは、耕三寺建立発願の原点ともいうべき建造物で、書院造を主とした日本住宅と洋館とを複合させた大邸宅となっている。和洋の一流の調度品や様式風呂には驚いた。これが昭和初期のものとは、とても信じられなかった。
そもそも耕三寺は、大阪で大口径特殊鋼管の会社を立ち上げて成功を収めた金本耕三氏(1891~1970)が、故郷である当地に母親の邸宅を建てたことに由来する。母親のためにつくった座敷や仏間など様々な部屋をご案内いただいたが、風通しや庭の見え方に至るまで心細やかな配慮に満ち、自らの親不孝を恥じ入るばかりだった。
谷本氏の懐の深さは、母親亡き後、その菩提を弔うために邸宅を寺院化して伽藍の規模を拡大して瀬戸内海の一大観光地としたことである。個人的な孝養心を、故郷の成長を願う愛郷心へと転化させたことだった。私たちは、山門から門前町にあたる「しおまち商店街」を歩いたが、観光客やサイクリストで賑わっており、確実に島の経済に貢献していることがわかった。